東軍史料とガトリング砲

 ガトリング砲について、今井のものとされる記録が複数見つかることは既に指摘している。私が見つけたのは4種類。改めてその内容を具体的に紹介してみよう。

衝鋒隊戦争略記
「河井継之助、古屋作左衛門、老少小者などを指揮し、大手門前土手を盾とし、河井自らカツトリンクゴン速射砲(三百六十発元込にて六穴の大砲なり)を頻に発し、敵数人を打殪す、然れども衆寡敵し難く、我が小者七八人斃死す、河井も肩先を打抜れ、力尽しかば、城中に入る」
(河井継之助伝"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223547" p394-395、公爵山県有朋伝"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880373" p1003)

衝鋒隊戦史
「会藩の一瀬要人、衝鋒隊総督古屋佐久左衛門及び長岡の太夫河合継之介の三名は、手兵僅かに五十余名を以て神田口に出て、雲霞の如き大軍を相手に必死と防戦し、中にも河合は三百六十発元込六つ穴のガツトリング速射砲を自ら操従して、群る敵兵に多大の損害を与えたるが、一瀬要人は衆寡到底成算なきを見て早くも遁走し、手兵も十四五名傷て用を為さざるに至り、続て河合も敵弾の為め肩甲部に重傷を負いしかば、今は古屋一人の如何ともなし難く、自らガツトリング砲を曳き河合を扶けて、残る三十余名と一散に城内に逃げ入り」

衝鋒隊日誌
「一瀬要人、河井継之助、古屋佐久左衛門、手元の兵四五十人にて神田口に出て防戦、河井自ら『ガツトリングコン』(三百六十発元込六穴の大砲)を発射し、数人を打たおす。此間に一瀬は遁走、衆寡支え難く、我兵十四五人打倒され、河井も肩先を打抜れ、総督と共に『ガツトリングコン』を曳き城中に引退き」

北国戦争概略衝鋒隊之記
「古屋佐久左衛門(総督・幕臣)、河井継之助(長岡大夫)手元ノ兵四、五十人ヲ率ヒテ神田口ニ出テ防戦シ、河井自ラ<カットリングコン>ヲ発シ(三百六十発元込六穴ノ大砲)、薩州兵ヲ射殪ス。サレドモ南軍破竹ノ如ク競ヒ進ミテ撓ズ。河井継之助モ肩先ヲ射貫レ、銃兵十四、五人討死シ、力尽テ城中ニ引入ル」

 比べてみると分かるのだが、「略記」とそれ以外の3種類の史料との間の違いが目立つ。3史料には手兵の数が記されており、その数値も40~50人もしくは50人余と似たような水準にあるが、「略記」には兵力数は書かれていない。戦闘が行われた場所は「略記」が大手門前となっているのに対し、3史料は神田口だ。味方の損害についても「略記」は7~8人なのに対し3史料は14~15人と記されている。
 もちろん「略記」が完全に孤立しているわけではなく、例えば一瀬の名がないのは「北国戦争」も同じだし、倒した敵の数を「数人」としているのは「日誌」も同様だ。それでも「略記」より他の3史料の方が共通部分が多いだけにオリジナルに近い可能性はある。おまけに3史料のうち「北国戦争」は、こちら"http://bookrest.blog.fc2.com/blog-entry-74.html"によると今井幸彦の記した「坂本竜馬を斬った男」が底本であり、そして今井幸彦とは他ならぬ今井信郎の孫である("http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E4%BF%A1%E9%83%8E"の系譜参照)。一連の史料のうち、最も信頼度が高いのはおそらくこの北国戦争だろう。

 今井以外の史料にはガトリングの名は出てこない。長谷川隊報告はあくまで「奇環砲」だし、泣血録"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777579"にも「河井督衆苦闘、身自射砲」とはあるがガトリングの文字はない。復古記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148505"掲載の史料を見ても、長岡藩戦争記には記述が見当たらず(p53)、堀直弘家記には他藩に対して城を引き揚げる談判をしたという文脈で河井の名が出てくるだけだ(p55)。
 つまり今井以外で使える史料は長谷川隊報告と、後は若松記(p54)くらいになる。このうち長谷川隊報告には大手口近くの「上田町或は渡里町一条の道路に備えんには」との提案を河井が了承したとある。一方の若松記では、一瀬ら会津藩幹部が最初「渡町」におり、それから河井と合流して中島へ向かったが敵の放った火のために「無據引返し、西郭口へ引揚」たとある。そこで彼らは西軍と射撃戦を行い「此所にて河井少々手負」という。その後、「北神田口切迫」との情報を得た彼らは「河井始一同同所へ参」って今度は神田口防衛の戦いを行った。だが優勢な西軍により「終郭門打破られ」、彼らは城を捨てて逃げることになった。
 「会津藩 幕末・維新史料集」という、若松記の全文を収録した本の著者は、こちら"http://www9.plala.or.jp/omohansha/book/b1.htm"でこの若松記について、「日々の戦闘の都度、各隊から戦闘行動情況を報告したものを纏めたもの」としている。また長谷川隊報告もおそらく題名の通り報告文として書かれたものだろう。さらに今井の記録が、衝鋒隊日誌から想像できるような日記形式でかなりリアルタイムで書かれたものだとしたら、これら3種類の史料はいずれもそれなりに信頼できるものと考えられる。もしそうだとしたら、果たして河井はどこでガトリング砲を使ったのだろうか。

 河井が神田口から中島を経て大手口へ向かったという説を前に紹介したことがあった"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54004993.html"が、この説は若松記と辻褄が合わない。若松記通りなら河井はおそらく大手口を出て渡里町へ向かい、そこで一瀬と合流して中島へ移動、それからまた大手口へ戻ったと考えるべきだろう。長谷川隊報告でも、河井がどこから「奇環砲を引来」ったのかは書かれていない。大手口から来たと考えても矛盾はしないのだ。また中島から撤収した後の長谷川隊は「退て渡里町西口に至」(河井継之助伝、p395)っている。中島と渡里町との行き来が珍しくなかったことが窺える。
 だが河井の動きが渡里町→中島→大手口→神田口だったとして、ではどこでガトリング砲を使ったのかというと話は簡単ではない。北国戦争に従うなら神田口で結論が出るのだが、一方で北国戦争はその際に河井が怪我をしたことに言及している。しかし若松記を信用するなら河井が「手負」となったのは大手口の戦いにおいてだ。神田口に行ったのは既に怪我をした後の話となる。この矛盾をどう解釈するかが、おそらく最大の問題だろう。
 若松記が間違っており、河井が怪我をしたのが神田口であれば話は簡単だ。今井の記述を採用し、ガトリング砲は長岡城の北側にある神田口で使用されたという結論で済む。だが若松記にある河井の負傷場所と、北国戦争にあるガトリング砲使用時に河井が負傷したという話が事実なら、使われた場所は城の「西郭口」である大手口になる。そしてそう解釈すれば、長谷川の「上田町或は渡里町一条の道路に備えん」という助言とも平仄が合う。
 要するに神田口、大手口のどちらかと決めるには証拠が不足しているのだ。最も直接的言及をしているのは今井だ。しかし同じように河井と同行していた会津藩関係者の記録(若松記)に書かれている話と比較するとおかしな部分が出てくる。一方で若松記にはガトリング砲に関する記述が全くないという弱点もある。長谷川の助言は興味深いが、あくまで助言に過ぎず、ガトリング砲の使用について直接触れているわけではない。決定的と言えるだけの論拠がないのが実情だ。
 もちろん私が知らないだけで、もしかしたら他に史料が存在する可能性はある。だが把握している史料を見る限り、どこでガトリング砲が使われたかを断言するのは難しいように思える。もちろん、どこで使われたにしても、あまり戦況に影響を及ぼさなかったことは間違いないだろうけど。

 ちなみに江戸時代初期の長岡の地図はこちら"http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000267"を参照。幕末の様子はこの時とは違っていた可能性があるが、参考にはなる。
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コメント

No title

藤山 遥
ガトリング砲の使用に関する考察関心しました。
ところで小生はアームストロング砲について調べておりますが、大山柏の「戊辰役戦史」には長岡藩も同砲を保有していたとの記事がありますが、全く史料に見出したものがありません。何かご存知の情報があれば、お教え願えたらと思います。

No title

desaixjp
コメントありがとうございます。
残念ながらアームストロング砲については全く詳しくないので、提供できる情報はありません。
少なくとも私が調べた範囲でアームストロング砲の名前を見た記憶はありませんが、あくまでガトリング砲について調べていたので単に見落としていた可能性もあります。
お役に立てず申し訳ありません。
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