続・カール大公のドナウ渡河

 カール大公の書いた1796年戦役本に関する続き。前回、カール大公のドナウ渡河に対するモローの反応が鈍かったことを記したが、同時代人はむしろその後のモローの対応に対して批判を浴びせているようだ。
 たとえばカール大公自身は「対照的に、もし大公がドナウ河を渡りジュールダンの前面でヴァルテンスレーベンと合流したのであれば、モローによるバイエルンへの行軍は、何より彼の敵がインゴルシュタット要塞に腰を据えてドナウ河両岸を支配している状態にとどまっていた中では、可能な選択肢の中で最悪の行動だったことになる」と述べている。
 また、脚注を記したジョミニも以下のように指摘する。

「この戦役において犯したあらゆる過ちの中で、モロー将軍によるバイエルンへの行軍は最大のものであるように見える。(中略)
 大公のジュールダンへの行軍を知った時点で修正するべきであったこの失敗は、彼が異様な移動を続けたためにさらに悪化した。彼はドナウ河にとどまるか、ジュールダンを支援するためその方角へ行軍すべきであった。バイエルン侵入はあらゆるものを失い何も救わなかった」

 モロー自身がカール大公のドナウ渡河をいつ知ったかは分からないが、彼が8月20日付のジュールダンに宛てた手紙の中で「カール公は近くヴァルテンスレーベンの増援を受けてあなたを攻撃すると信じている」と述べている点から、少なくともその時までには相手の動きを察知していたことが窺える。
 さらにモローは「私は彼[カール大公]に時間を与えないようにする。休みなく彼を追撃するつもりだ」と記しているのだが、実際にはモローはカール大公を追ってドナウ北岸へ渡ることなく何日も南岸にとどまり続けた。モローの部下のドゼーがノイブルクでドナウ北岸へ渡ったのは、上の手紙を書いてから20日以上も後の9月11日だ。
 これではカール大公とジョミニから批判を受けるのもやむを得ない。彼がドナウ南岸のバイエルンでラトゥール率いるオーストリア軍と対峙している間に、カール大公はアンベルクとヴュルツブルクの戦いでジュールダンを打ち破りこれをライン河近くまで追い払っていたのだ。モローが何を考えていたのか、彼自身の言い訳を聞きたいものだが、どうやらモローの回想録はないらしい。

 その他に、この本ではカール大公がモローと対峙していたラトゥールに対して言った言葉も紹介されている。「モローがウィーンへの道を進軍したとしても、私がジュールダンを倒す限り全く気にする必要はない」というのがそれ。
 似たような台詞はワーテルローの戦いでグナイゼナウが言っている「彼[ティールマン]の軍団が大敗したとしても、この地におけるナポレオンに対する勝利の方がより重要だ」というのがある。いずれもジョミニが記している「決定的な地点」の重要性を踏まえたものであり、こうした概念がジョミニ独自のものではなく同時代に共有されていたことが分かる。

 また、オーストリアの騎兵に対するカール大公の指摘も面白い。オーストリアの将軍たちは騎兵を困難な地形でも使いたがる傾向があったが、それは「革命戦争の初期にこの兵科が経験不足のフランス歩兵を逃走させ、森や防御地点、村などを奪った」ことが背景にあるという。使い勝手が良すぎたために環境が変わっても使いすぎてしまい、結果として使い方を間違ったのだそうだ。
 それでも1796年当時はまだオーストリア軍の騎兵はフランス側に比べて優位性を保っていただろう。何より数が違った。カール大公の本によると、戦役開始時点でドイツ方面に展開していた騎兵の数はフランス軍1万7515人に対しオーストリア軍は何と4万2642人。モローがオーストリア軍の動向を把握するのに時間がかかった一因はこの数の差にあったのかもしれない。

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