ネイと突撃

 de Witのサイトではネイの騎兵突撃"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/charge.html"について、どう書いているのだろうか。午後4時からの突撃について書いている部分には以下のようにある。

「その時[午後4時頃]までにネイはプロイセン軍の危険が迫っていることを知り、またウェリントンがその時まで街道の間に見えていたかあるいは稜線のすぐ背後にいた戦力とともに後方への移動を行っていると知らされた」

 一体de Witは何を論拠としてこう主張しているのか。脚注(p23)に挙げられているのはまず公報(日本語訳はこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_nap.html"、原文はこちら"http://books.google.co.jp/books?id=B7rSAAAAMAAJ")、それからエイメ大佐の記録("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k733390")、最後はCharrasのHistoire de la Campagne de 1815("https://books.google.co.jp/books?id=T0NBAAAAYAAJ")である。
 公報には「既に損害を蒙っていたイギリス軍が我が軍の砲撃を避けるために行った後方への移動を見た予備騎兵が、モン=サン=ジャンの丘に進み歩兵に突撃した」(p296)とある。エイメは「3時頃、敵は激しい抵抗にもかかわらず、元帥の攻撃に後退を強いられ、中央の陣地を空けた」(p21)と記している。そしてCharrasは「4時少し前、英蘭軍中央の第一線が後方への移動をした。我らの砲弾と榴弾による破壊を減らすため、ウェリントンは高地の頂から自陣の側へ移った」(p49)と記している。
 基本的にフランス側の言い分だけ、しかもCharrasの本は半世紀以降後に出版された二次資料であり、これだけで本当に英連合軍が後退したと主張するのは無理がある。de Witもそれは分かっているようで、脚注では「だがこの状況についてウェリントン側から裏付けるものはない」と指摘している。実際に後退があったと断言するのは無理だろうが、後退があったと思ったネイが突撃を決断した、という理屈なら成り立つのだろう。

 突撃のきっかけとなったのがネイによるドゥロールへの命令であった点も、de Witのサイトには紹介されている(p2)。こちらの元史料として使えそうなのはこの本"https://archive.org/details/lelieutenantgnr00stougoog"だ。同書は半分以上Papiers du Lieutenant-Général Baron Jacques-Antoine-Adrien Delortという史料集が占めており、その中に彼が1820年9月19日に記したRelation de la bataille de Waterloo(p142)も掲載されている。ドゥロールはその脚注部分で以下のように述べている。

「プロイセン軍が我らの背後でどのような進展を見せているか想像しないまま、私の関与なしにネイ元帥から直接の命令を受けて大高地へ向かっていたファリーヌ准将の旅団を私は止めた。私の師団が一部を構成している[ミロー]軍団を指揮する将軍からのみ命令を受けると意見を述べたうえで、彼に師団から離れぬよう命じた。旅団の移動を中断させたこの議論の間、ネイ元帥が苛立ちを見せながらやって来た。彼は当初の命令の実行を主張したのみならず、皇帝の名の下に2個師団を要求さえした。私はなおも躊躇した。動揺しておらず、自らを守ろうとしている高地の歩兵を騎兵の大軍で攻撃してはならないと、私は意見を述べた。元帥は『フランスを救うために前進せよ!』と叫んだ。私は悲痛に思いながら従い、これほど軽率な機動が敗北の原因の一つにならなければいいと願った」
p156

 興味深いのはネイがドゥロールに命令を押し付ける際に「皇帝の名の下に」au nom de l'Empereur、騎兵突撃を命じているところだ。単なる決まり文句として述べたに過ぎない可能性はあるし、基本的にネイが突撃を命じた主役であることに代わりはないのだが、気になる一文であることは間違いない。
 というのも午後4時頃からの命令は、そもそもナポレオン自身が意図していた第2次攻撃の一環となるはずだったようなのだ。de Witによればこの攻撃はまずラ=エイ=サントを攻撃し、第1軍団の散兵がウェリントンの中央と左翼を叩く。そのうえで第6軍団が主力となり、フランス軍左翼の第2軍団とケレルマン、ギュヨーの騎兵に支援されてウェリントンを襲撃することになっていた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/interlude.pdf" p6)。
 後にナポレオンはMémoires pour servir à l'histoire de France en 1815"https://books.google.co.jp/books?id=O0xSAAAAcAAJ"の中で「司令官の意図はこの移動を命じるものだったが、それは1時間後、親衛歩兵16個大隊及び100門の大砲に支援されて行うつもりだった」(p110)と述べている。これが単なる後からの言い訳ではないようで、というのも会戦から1ヶ月もしない7月15日にジェロームが妻に記した手紙の中で以下のように言及しているのだ。

「皇帝は騎兵の大半、歩兵2個軍団及び親衛隊で敵中央に棍棒の一撃を与えるべく前進するようネイ元帥に命じており、もし元帥が皇帝の命令を実行していれば英軍はやられていただろう。だが熱狂に引きずられた彼は45分早く攻撃をしてしまった」

 要するにネイの攻撃(ウェリントンに対する騎兵による単独攻撃)自体が拙かったとまでは皇帝は考えていなかったわけだ。タイミングが早すぎたために騎兵単独攻撃になってしまったが、もっと後に歩兵ときちんと協同して攻撃していれば勝てたはず、とナポレオンは考えていたように思われる。実際には1時間後になるとプロイセン軍の数が増え、状況はより不利になっていた可能性もあるのだが、皇帝はそうは見なしていなかったことになる。
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