陰謀説の由来

 de Witのワーテルローサイト"http://www.waterloo-campaign.nl/"は相変わらず興味深い。今回はこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/bruxelles.html"でも取り上げた「ツィーテンの報告」というかプロイセン軍と英連合軍とのコミュニケーションについて紹介しよう。基本的にde Witの立場は、上のページの[追記]部分で記したPedlowの指摘と同じだ。
 まずツィーテンは1815年6月15日の午前4時頃に起床し、4時半過ぎ頃に最初の報告をブリュッヒャーの司令部に宛てて記している("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/zieten.1.pdf" p1)。この時点では砲声と銃声は聞こえているが何の報告も受けていないという内容だ。おそらくロッブなどで行われていた小競り合い("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/reille.pdf" p1)のことについて言及したのだろう。
 次にツィーテンが報告書を書いたのは午前6時半。Pedlowはツィーテンの第2報を午前8時15分だと書いていたが、実際にはその前に別の報告を出していたようだ。グナイゼナウのアーカイヴからの引用なのでおそらく事実だろう("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/zieten.1.pdf" p5)。この第2報の時点でテューアンが攻撃されていることがツィーテンに情報として伝わっていた。
 攻撃が判明した時点でツィーテンは部下であるシュタインメッツとピルヒに対して後退を命じている(午前8時)。その後で8時15分に3度目となる報告をブリュッヒャーに出した。そしてその後、恐らく午前9時頃にかけ、ようやくウェリントン宛の報告を書いたことになる(p3)。この報告が実際にウェリントンの下にたどり着くにはさらに時間を要し、おそらく午後6時にかけてミュフリンク経由でようやく届いた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/brhfdkw.pdf" p1)。
 以上がツィーテンの報告に関するde Witのまとめだ。もちろんこれはツィーテン自身の主張とは異なっている。彼はこの件について1819年、及び1839年に言及しており、それぞれ早朝の時間からウェリントンに連絡を送ったと主張している。だがde Witは、Pedlowと同様、この主張は怪しいと見ている。いずれも実際にフランス軍が攻撃を始める前に連絡が送られたことになっているうえ、後者は他にも信用できない記述で溢れているというのが理由だ("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/obs.pruisen.pdf" p17-18)。他にも様々な理由を挙げてde Witはツィーテンの報告が午前9時頃に出されたものだと結論付けている(p18-20)。

 ウェリントンの下に届いたプロイセン側からの報告はツィーテンのものだけではない。ツィーテンから情報を得たブリュッヒャーの司令部が連絡将校であるミュフリンクに伝え、そこからウェリントンの下に届いた情報もある。だがこれも数が少なく、届く時期が遅かった。
 de Witによると15日にブリュッヒャーからウェリントンへ送られた連絡はたった2つ。フランス軍の攻撃を知ったブリュッヒャーは午前9時から11時の間にソンブルフへの兵力集結を決断し、その件についてミュフリンクに伝える手紙を正午頃に記した(p16)。これがミュフリンクの手元に届いたのは午後9時45分頃("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/brhfdkw.pdf" p4)。ツィーテンの情報よりも遅かった。
 もう1つの情報がブリュッヒャーの司令部から出されたのは実に午後11時頃。こちらは当然の如く当日中にミュフリンクの手元に届くことはなかった。ツィーテンがシャルルロワを放棄し、ブリュッセルへの街道ががら空きになったという最も重要な情報は、どうやら15日のうちにはウェリントンの下に届かなかったようだ("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/obs.pruisen.pdf" p21)。
 結局のところ、プロイセン軍とウェリントンの間の連絡は不十分かつ遅れがちだったということになる。何しろ午後3時に最初の情報をウェリントン自身に伝えたのは、彼の下に所属していたオラニエ公だったほど("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/brhfdkw.pdf" p1)。オラニエ公は早朝に前哨線を視察した際、午前7時半頃にプロイセン軍が攻撃を受けているとの情報を得ていたという("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/nedbelgen.pdf" p1)。彼が視察を終え、ブリュッセルに到着し、ウェリントンに面会した時点では、まだプロイセン軍からは何の情報も伝わっていなかったようだ。
 de Witはプロイセン軍の伝令がいかにも遅かったことも指摘している。シャルルロワからブリュッセルまでの50キロメートルを、ツィーテンの伝令は9時間かけて移動している(通常は5~6時間で済む)。またブリュッヒャーの司令部があるナミュールからブリュッセルまでの63キロメートル(6~7時間の距離)には10時間半を要しており、どちらも時間がかかりすぎだった。ただしこれは英連合軍との間だけに存在した問題ではなく、ビューローの第4軍団への伝令も同様に異常な時間がかかっていたという("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june15/obs.pruisen.pdf" p21)。

 ウェリントンがブリュッヒャーを騙したという説を唱える側は、その証拠の一つとして16日にフラーヌで彼が書いた手紙を取り上げることもある("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june16/wellington.pdf" p2)。ただしこの手紙は、楽観的な内容ではあるがあくまでその時点における英連合軍の配置に言及したものであり、ウェリントンが必ずプロイセン軍を支援すると約束したものではない、というのがde Witの指摘だ。
 そもそもウェリントンがブリュッヒャーを騙したという説が生まれたのは19世紀の後半。まずLehmanが、さらにDelbrückがこの説を唱えたという。ウェリントンが兵力集結の時間を稼ぐためにプロイセン軍をリニーで戦わせたというこの説については、20世紀初頭にはLettow Vorbeckも戦線に加わり、そして20世紀末に初めて英語で本格的に紹介したのがPeter Hofschröerとなる。彼の本は要するに古い(ただし戦役当時にはほとんど言及されていない)説の焼き直しだったのである("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june16/evaluatie.pdf" p7-11)。
 de Witはこの「ウェリントンの陰謀」説をばかげたものだと見なしている。ナポレオンを倒すためには連合軍の協力こそが不可欠であるのに、意図的にプロイセン軍を騙すようなことをしていたのでは勝てはしない。そもそもこの陰謀説が成り立つのは、プロイセン軍がすぐ立て直せる程度の敗北をリニーで喫したことが分かっているから。つまり後知恵だ。もしナポレオンの攻撃を受けてプロイセン軍が壊滅していれば、次はウェリントンの英連合軍がフランス軍の全力とぶつかることになる。そんなリスクを冒してまでブリュッヒャーを騙す必要があっただろうか。
 基本的にこの「ウェリントンの陰謀」説が生まれたのが19世紀後半という時点で、あまり信用する必要のない説なんだろう。同時代の当事者が明白に主張していたのならともかく、後世になって大きく取り上げられるようになってきた陰謀説を信用するのは、一般的にいってよろしくない。眉につばをつけて見るようにするのがいいだろう。
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