歩兵第72連隊第3大隊(2個中隊欠)を率いていた田中少佐は1919年2月24日午前2時、ユフタ付近に前進して敵の背後を攻撃するよう命令を受けた。途中、アレキセフスクに森山中尉率いる1個小隊を残し、田中大隊は夕刻にはユフタに到着した。翌25日午前8時、田中少佐は香田少尉の1個小隊をスクラムレフスコエに偵察に送り出した。だがこの小隊は優勢な敵に包囲されて「全滅」し、負傷者4人(うち1人は途中で死亡)のみが戻ってこられた。
25日午後11時、状況を知った田中少佐は攻撃のためスクラムレフスコエへと前進を始めたが、26日午前8時にチユデイノフカ西の森で敵と遭遇。ここでも日本軍は包囲されて「全大隊悉く戦死」した。またアレキセフスクにいた西川大尉の野砲兵第12連隊第5中隊(1個小隊欠)は、ここに残されていた森山中尉の1個小隊とともに田中大隊の増援に向かったが、同じく包囲され負傷者5人を除いて全滅した。
官報以外にもこの話は載っている。たとえば1925年に出版された西伯利出兵史要"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980716"の中には地図つきで一連の戦闘が紹介されている(p76-80)。この本によればユフタの戦闘は日本側の兵力310人、大砲2門であり、負傷者9人の他は全滅した。敵の戦力は約2500人とされている(p75)。著者は「全滅と言う事は能く聞く事であるが、所謂全滅の中には尚生きて戦場を去る少数のものがあると言うのが普通の全滅である。今回の如き真の全滅なるものは未だかつてこれを聞かない」(p80)と述べている。
西比利亜巡遊記なる本"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961026"にも「田中大隊全滅」の話が載っている(p211-215)。なぜか最初の香田小隊が全滅した25日の話は全く無視され、26日の戦闘のみが書かれているのだが、それでも「一兵をも残さず我田中大隊は、斯くて全滅し、悲壮なる名誉の最後を遂げたのである」(p213)とあるように「全滅」という用語が使われているのは同じだ。
アジア歴史資料センター"
http://www.jacar.go.jp/"にもこの戦いに関する記録が残されている。たとえば外務省の資料にある戦闘の詳報(B03051293000)がそうだが、こちらは内容的にはほぼ官報と同じで目新しい情報はない。
それより生々しいのは歩兵第72連隊の陣中日誌(C13110229400)。田中大隊の動向は2月26日(17/32)、27日(19/32、22-23/32)に記されているが、中には「その後の消息なし」(23/32)といったシュールな言葉も見かけられる。さらに28日には最初に全滅した香田小隊の42人の死体が到着したが、「姓名の判明せる者10人」(24/32)だけといった有様であり、田中大隊主力の「その後の状況明ならず」(26/32)という状態が続いている。
田中大隊主力を増援しようとした西川大尉らの部隊が大損害を出したことが明確になったのはさらにその後(28/32)。田中大隊主力が全滅したらしいと推測できるようになったのは月が変わった3月(C13110229500)の1日になってからだ(3/50)。そしてこの日誌を見ると、田中大隊に関連する記録には全てチェックマークがついており、この「全滅」がかなり重要視されていた様子がうかがえる。3月2日、ようやく収容された戦死者の名前が日誌に出てくる(6/50)。3月3日には連隊司令部から師団参謀長に以下の電文が送られている。
「ユフタ」戦闘に於ける全滅は真の全滅にして特例故死者の恩賞も亦特例を以てせらるる如く御尽力を乞う(12/50)
陣中日誌に「全滅」という言葉が使われており、改めてこの時期の日本軍において「全滅」がほぼ100%近い損害を意味していたことが分かる。
もう1つ、第72連隊第3大隊の陣中日誌なるものもある。その2月分(C13110237200)を見ると、日付を追って香田小隊の全滅(21-22/25)、大隊主力と西川大尉らの部隊の全滅(22-24/25)が紹介されているのだが、全滅した部隊が日誌だけきちんと継続記録できたとは思えない。おそらく後に状況が明らかになってから改めて清書されたものだろう。
というのも、同じ日誌の別冊(C13110237500)に載っている「ユフタ付近戦闘概況」(22-33/50)に、参加兵力が全滅してしまったため戦況が正確に分からないことが指摘されているからだ。たとえば香田小隊の戦闘について「最初の散開壱にて負傷し帰来せる兵卒3名の言等を総合して推断したる戦況に付、実況を穿てるや否やは保し難し」(22/50)と注意書きがあるし、西川大尉の部隊の戦いについても「重傷して生存せるもの及戦場掃除に任ぜる将校の言に依り推断作為せるものなり」(27/50)としている。
特に負傷者すら残らなかった大隊主力については詳しい戦闘経緯が分かったとも思えず、この概況にも「本戦況は1名の生存者もなく死体の位置等に依り推断したるものなるを以て因より疑問の余地大なり」(23/50)と書かれている。もちろん単なる推断だけではなく他の情報源もあったようで、たとえば「敵兵の土人(地元民のことを当時はこう呼んでいた)に語れるところに依れば最後の1兵まで格闘したるが如く真に壮烈を極む」(25/50)とのフレーズも見受けられる。
コメント