ハイルスベルク

 ナポレオン漫画最新号、の前に先月号でいきなりフリートラントの戦いに到った結果として漫画では省略されたハイルスベルクの戦いにも触れておいた方がいいだろう。ジョミニの著作、Vie politique et militaire de Napoléon, Tome Deuxieme."https://books.google.co.jp/books?id=AJUTAAAAQAAJ"から関連部分(p406-411)を引用する。
 ただしそのまま引用するのではなく、南北戦争時の北軍総司令官でもあったHalleckによる英訳本、Life of Napoleon, Vol. II."https://books.google.co.jp/books?id=sRBbAAAAQAAJ"からの翻訳とする。もちろんその方が楽だというのが最大の理由だが、小見出しがついていて分かりやすいという面もある。

「ナポレオンの配置に伴うチャンス――敵の全増援到着前に我が軍を16万人まで増やす時間が与えられたため、オーストリアが戦闘行為を遅らせれば戦役に勝つ機会は私の方が優位であることは明らかだった。従って私の利益のためにも素早く決定的な一撃を与える必要があった。デッペンのネイを攻撃したベニングセンは、単に私が1日か2日後に来ると予想したのか、あるいは敵が塹壕を離れるよう仕向けるためネイを前進陣地に残しておいた私の視点ではより好ましいのだが、私と遭遇するために出てきた。グットシュタット周辺における我が戦力の統合はこれ以上の遅れを許されず、今度は私が攻勢を決断した。
 ハイルスベルクの防御陣地と、敵物資全てを集積したケーニヒスベルクとは、2つの主な機動という選択肢を私に提供した。第1の、そして最も巧妙なものは、全体的な移動を実行し、右翼を前進させてビショフシュタインとハイルスベルク間、右翼をバルテンシュタイン方面に、左翼をグットシュタット方面にした戦線を構築することだった。これはイエナとナウムブルクでプロイセン軍相手に行ったのと同じ機動で、さらに大きな成功のチャンスがあった。なぜなら左翼で敗れ下パッサルゲとフリッシュ=ハフへ追い戻されたロシア軍は、海へと追い落とされるであろうからだ。間違いなくケーニヒスベルクが彼らに避難所を与えるが、西方をバルト海、北方をクリスハフに閉じ込められたこの地は、撃ち破られた軍に出口を提供しない。従って彼らが退却をしようと試みるなら、すぐ彼らがヴェーラウに行くことが予想できる。第2[の機動]は右翼をハイルスベルクの防御陣地に前進させ、一方で5万人が左翼で機動し、連合軍の作戦線を脅かし、彼らに戦うことなく堡塁を放棄させるよう強い、その退却を激しく追撃して彼らをプレーゲルあるいはニェーメンの渡河点で寸断するものだ。後者の計画は前者より優位性に乏しく、かなりの軍団を敵と海の間で危険に晒すという理由で戦略の原則に反している。にもかかわらず私は後者を好んだ。なぜなら私の左翼が既にその方面にいたうえ、右翼が機動するためにはロシア軍の回りに長いカーブを描き、トルンとワルシャワへの連絡線を晒し、私自身がアレ右岸の森がちで険しい土地に身を投じる必要があったからだ。しかし前者の計画の方が軍事原則とより調和していたことは告白しなければならない。私が2番目を選ぶよう仕向けるのに最も寄与した動機の一つは、既に述べたように、アイラウの戦い時点においてベニングセンがケーニヒスベルクに対して臆病な不安を示していたことにある。そしてそれが軍事的な観点ではないため、プロイセンに対する政策、あるいは補給手段に関連する格段の理由があるのだと私は結論づけた。敵からこの物資拠点を奪うことで、私はこれだけ遠方の国々においては重要な考慮事項となる自身の兵に対する補給を入手するのみならず、連合軍の作戦システム全てを覆すことになる。一方スールトによるケーニヒスベルクへの行軍が、ロシア軍をしてこの都市を守るためその右側へ後退する決断をさせる可能性があり、彼らをティルジット街道から切り離すためその左翼に脅威を与える戦力を投じることができる状態を維持する必要もあった。これらの理由から私は戦略原則を無視し、アレ左岸をハイルスベルクへと前進する決断をした。
 ハイルスベルクの戦い――6月10日、我が前衛部隊はベヴァーニク近くで敵と遭遇した。執拗な戦闘の後にロシア軍は撃ち破られ軍主力へと押し戻された。午後9時、我々は敵宿営地に対峙して布陣した。私は当初、ハイルスベルクへ突入して敵軍を2つに分断しその壊滅を不可避とするため、アレ左岸に位置するロシア軍右翼の左側を攻撃するつもりだった。すでにかなり遅い時間だったにもかかわらず、私はラウデンとラングヴィーゼ側面のロシア軍を守っている塹壕を攻撃するようスールト軍団に命じた。ランヌ軍団と親衛隊の銃兵にスールトを支援させたにもかかわらず、ロシア軍はなお陣地を維持した。我々は外郭防衛線のみを奪ったが、敵の予備が後にそこから我らを排除した。3時間もしないうちに約6000人の兵が戦闘不能になった。
 翌日、攻撃を再開することで、私はそこで交戦する軍団を失うリスクを冒した。ケーニヒスベルクへ移動することで敵を抵抗なく立ち退かせることに確信を持っていた私にとって、この攻撃を行う理由は乏しかった。私はしばし、ネイとダヴーの軍団でビショフシュタインに行軍すべきでないか迷った。既に私を仕向けていた動きが、反対の方向を取らせた。11日夜明け、我が軍は2つの縦隊でランズベルクとプロイス=アイラウへ移動した。1個軍団のみが私の移動をカバーするためハイルスベルク宿営地の前面に残された。この作戦に対する異論がないことはない点を私は告白する。なぜならそれは私の連絡線をむき出しにし、ハイルスベルク宿営地を拠点とした敵が我々の後方で作戦を行い、我らを敵軍、下プレーゲル及び海によって囲むことができたからだ。だが私はそうした事態を恐れるにはあまりにベニングセンを良く知っていた。大胆な作戦は彼の把握能力を上回り、そして彼が我々の連絡線を攻撃する代わりにプレーゲルで機先を制されるのを妨げるため退却するだろうと想定するあらゆる想像可能な理由を私は持っていた。加えて私は敵がハイルスベルクにとどまっている限り、ランズベルクを超えることがないよう注意した。もし彼が私の背後へ行軍したなら、ダヴーがアウエルシュタットでプロイセン軍に対して移動したのと同じ方法で、こちら側に数的優位があるというさらなる有利さとともに、私は急いで敵に襲い掛かるつもりであった。最悪の場合でも私はメールザックを経て下パッサルゲへ後退し、後衛部隊のみの損害で逃げ出すことができた。
 ベニングセンの退却――だが私はこうした手段に頼る必要はなく、ベニングセンは私の予想が完全に正しいことを示した。11日の夜間、彼はアレ右岸に渡り、ハイルスベルクの橋を燃やし、バルテンシュタイン、シッペンバイル及びフリートラントを経てヴェーラウへの退却を始めた。かくして私は安全にプレーゲルへの前進を続けた。12日、プロイス=アイラウに到着。13日にはスールトがクロイツブルクへと移動した。ベルク大公とダヴーはプロイス=アイラウからケーニヒスベルクへの直接の道を進んだ。ランヌはドムナウへ前進し、ランパッハへ移動したモルティエとネイの支援を受けた。ヴィクトールが指揮するベルナドット軍団はメールザックを経て我らと合流すべく下パッサルゲを出発し、同じようにプロイス=アイラウへ向かっていた。フリートラントのところまで到着したベニングセンは、突如ヴェーラウへの行軍を止めた。彼がケーニヒスベルクに向かうことを我々が明確に予想していることに苛立った彼は、我らの軍の様々な軍団を個別に撃破する期待を持ってアレを渡り攻勢を取る決断をした。この移動は戦争技術の規則に反してはいなかったが、彼はそれをより激しく実行し、また全面的な会戦ではなく個別の一連の戦闘に限るべきであった。ロシアの将軍にはそうした方法を採る追加の理由があった。即ち私がこれ以上の増援を期待できない一方、彼はラバノフ公がティルジットから連れてきている2万6000人か2万8000人の部隊の到着を待っていたためである」
p302-306

 読んでみるとジョミニが戦闘経過の細部にあまり触れておらず、その前後におけるより大きな視野での軍の動きに力点を置いていることが分かる。あくまで軍の司令官に当たる人物が何を考えていたかを分析することが主眼であり、何が起きたかを記録するのが目的ではないという考えかもしれない。
 という訳でナポレオン漫画最新号の話は次回。
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