利己的な遺伝子の「子供」

 寄生獣のアニメで田村玲子のシーンが放映された"http://www.kiseiju.jp/story/18.html"。ある意味クライマックスといえる場面であり、ツイッターの予測変換に「寄生獣 泣いた」が出てくる程度には視聴者の琴線に触れたようだ。ただツイート数"http://anime.live-engine.jp/kiseiju/profile"やgoogle trends"http://www.google.co.jp/trends/explore#q=%E5%AF%84%E7%94%9F%E7%8D%A3"を見ても、反響の数自体は昨年に比べて減少傾向にある。年末の12話があまりに「いい最終回だった」"http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%84%E3%81%84%E6%9C%80%E7%B5%82%E5%9B%9E%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F"ため、その後の視聴が減っているのかもしれない。
 見た人間が色々な解釈ができるのは、いいフィクションの条件の1つだろう。この作品もそうであり、特にこの場面は考えさせられるところが多い。例えば「我々と人間は一つの家族だ。我々は人間の子どもなのだ」という台詞。これはどう理解すべきだろうか。
 田村玲子がそれ以前に「利己的遺伝子」仮説を聞いていたことを踏まえて考えてみよう。利己的遺伝子仮説は、進化の主体が(当たり前であるが)「種」ではなく、さらに生物「個体」ですらなく、実は「遺伝子」であるという点に特徴がある。そこではヒトは遺伝子の乗り物に過ぎず、人間という種もまた遺伝子のプールでしかない。いずれも遺伝子から見れば自らが生き残るうえで使うべき「道具」であり、それ以上でも以下でもない。もちろん母性なるものも、自らの生存しか考えない遺伝子が生き残るために生み出したツールの1つだ。
 パラサイトがそういう視点で見て「人間の子供」になることはあり得るだろうか。繁殖をしないから遺伝子の乗り物には成り得ない。だが遺伝子のツールとして活用することはできる。パラサイトを生み出した遺伝子のライバルを消すとか、あるいはその遺伝子にとって都合のいい環境を作り出すことにパラサイトが貢献するのであれば、確かに便利な道具になるだろう。でもほぼ無作為にヒトを取って食うだけの存在が特定遺伝子の役に立つとは思えない。
 いやまて、そういえばパラサイトは「アルコールを含んだ肉は好きじゃない」と言っていたな"http://blog.livedoor.jp/kaigai_no/archives/42234863.html"。もしかしたら素面のヒトを食いまくることで下戸遺伝子を駆逐するため、酒好きの遺伝子が生み出したのがパラサイトなのかもしれない。田村玲子のあの台詞も「(アルコール好きな)人間の(遺伝子が生み出した)子供」と考えれば辻褄が合うじゃないか。何ということだ。この作品にまさかこんな真実が隠されていたとは。

 驚愕の事実! パラサイトを生み出したのはアル中遺伝子だった!
 体験者Sさんは語る「そういえば父が一時期、アルコールに溺れていたけど、もしかしたら……」(注:個人の感想です)

 冗談はこのくらいにして、ネット上では田村玲子の台詞を利己的遺伝子仮説よりむしろガイア仮説的に解釈する向きが多い。例えばパラサイトが寄生しているのはヒトではなく「人間社会そのもの」という説("http://blog.livedoor.jp/kaigai_no/archives/43345974.html"のコメント209)。パラサイトが繁殖できないのにヒトを食うのは、ヒトの数を調整したいという人間社会そのものの都合で生まれたからで、その意味で「人間の子供」だという見方だ。非常に機能的な見方であるが、田村玲子自身が人間について「何十何百何万何十万と集まって一つの生き物」"http://blog.livedoor.jp/kaigai_no/archives/43128965.html"と言及している場面があるので、この指摘にも充分に耳を傾けることができる。
 あるいはパラサイトが「それのみでは生きてゆけないただの細胞体」というか弱い存在である点を、田村玲子が「子供」と表現した可能性もある。ヒトの赤ん坊は単独では長く生き延びることはできず、誰かの世話が必要になる。実際にヒトの子供を育てた田村玲子が、その実感からこういう表現を使った可能性はあるだろう。ただヒト以外の赤ん坊になると、生まれた15分後には自分の脚で立つ草食獣のようにそこまで極端に「か弱い」存在ではなくなる。それに子供はやがて「それのみで」生きていける大人になるが、パラサイトはそうならない。
 もっと単純に田村玲子が最期に示した人間性や母性に引きつける見方もある。海外の掲示板"http://myanimelist.net/forum/?topicid=1352652"でも多く見かけるas a humanとかmaternal instinct、さらにはAnime Mother of the Yearという言葉に象徴されている理解だ。日本語サイトにも「田村玲子はお母さんになったんだ」「人間の感情というものを真に理解したように思える」といったコメントがある。それこそ地球上の生命はすべて家族のようなものだというフレーズを持ち出すことも可能だろう。一般的にはこうした理解の方が多いようだ。

 田村玲子の自殺とも取れる行動についても、同じ視点で見る人が多い。自分より子供を優先する人間の母親的な判断ってわけだ。一方でもちろんそうした見方に違和感を唱える向きもある。「反目する異生物同士で、共存する道を模索して、その答えを見つけて、その答えを体現したシンイチに託して死んだ」という指摘などは一例だろう。こちら"http://xn--o9j0bk1145b4xyadgc.net/meaning-of-parasite-existence-1230"では繁殖能力のないパラサイトについて田村玲子が「存在意義を見つけられなかった」ことがあの行動の理由だと解釈しており、母性や人間性という見方はしていない。
 田村玲子がパラサイトの中でも極めて理知的な存在であったことを踏まえるなら、後者のような解釈にも一理ある。だが一方で田村玲子自身が「自分でも驚いているわ」"http://xn--o9j0bk1145b4xyadgc.net/parasite-anime17-impression-1446"と言いながら子供を助けたこと、またその際にミギーが田村玲子の脳波について「いったいどういう感情なんだ」と述べていることなどを踏まえるなら、前者の解釈もおかしくはない。
 実際「それでも今日、また1つ疑問の答えが出た」"http://xn--o9j0bk1145b4xyadgc.net/parasite-anime18-impression-1463"というフレーズは、育てている子供に対する「お前は不思議だ」という疑問への答えだと見なすことができる。「不思議」と思った原因が田宮良子の肉体で生成されるホルモンなどの影響によって生まれた母性本能であり、その効果を身をもって理解した(倉森から子供を救い出した)結果としての「答えが出た」という発言だと考えても辻褄は合う。冷酷なまでに理性的存在だったのが、最期は生物の本能に引きずられて「人間的」な「母性」に目覚めたという話だ。それだけ自然選択の中で練り上げられた生物学的適応の力が強いと言うこともできる。
 もちろん、そうでない解釈をしても構わない。フィクションは受け手が自由に受け止められる点に魅力がある。存在意義を見失ったでもいいし、共存の道を見つけて新一に委ねたと考えてもいい。少なくとも「食う」ためだけに生き続ける点に、あまり意味を見出していなかったのは確かだろう。生物にとって子孫を残すことに存在意義を見出すのは割とたやすいのだろうが、その手が使えない「細胞体」パラサイトにとって人生の意味を考えることは絶望につながりやすいのかもしれない。哲学的に考えすぎたが故の悲劇とも言えそうだ。
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