見た人間が色々な解釈ができるのは、いいフィクションの条件の1つだろう。この作品もそうであり、特にこの場面は考えさせられるところが多い。例えば「我々と人間は一つの家族だ。我々は人間の子どもなのだ」という台詞。これはどう理解すべきだろうか。
田村玲子がそれ以前に「利己的遺伝子」仮説を聞いていたことを踏まえて考えてみよう。利己的遺伝子仮説は、進化の主体が(当たり前であるが)「種」ではなく、さらに生物「個体」ですらなく、実は「遺伝子」であるという点に特徴がある。そこではヒトは遺伝子の乗り物に過ぎず、人間という種もまた遺伝子のプールでしかない。いずれも遺伝子から見れば自らが生き残るうえで使うべき「道具」であり、それ以上でも以下でもない。もちろん母性なるものも、自らの生存しか考えない遺伝子が生き残るために生み出したツールの1つだ。
パラサイトがそういう視点で見て「人間の子供」になることはあり得るだろうか。繁殖をしないから遺伝子の乗り物には成り得ない。だが遺伝子のツールとして活用することはできる。パラサイトを生み出した遺伝子のライバルを消すとか、あるいはその遺伝子にとって都合のいい環境を作り出すことにパラサイトが貢献するのであれば、確かに便利な道具になるだろう。でもほぼ無作為にヒトを取って食うだけの存在が特定遺伝子の役に立つとは思えない。
驚愕の事実! パラサイトを生み出したのはアル中遺伝子だった!
体験者Sさんは語る「そういえば父が一時期、アルコールに溺れていたけど、もしかしたら……」(注:個人の感想です)
あるいはパラサイトが「それのみでは生きてゆけないただの細胞体」というか弱い存在である点を、田村玲子が「子供」と表現した可能性もある。ヒトの赤ん坊は単独では長く生き延びることはできず、誰かの世話が必要になる。実際にヒトの子供を育てた田村玲子が、その実感からこういう表現を使った可能性はあるだろう。ただヒト以外の赤ん坊になると、生まれた15分後には自分の脚で立つ草食獣のようにそこまで極端に「か弱い」存在ではなくなる。それに子供はやがて「それのみで」生きていける大人になるが、パラサイトはそうならない。
もっと単純に田村玲子が最期に示した人間性や母性に引きつける見方もある。海外の掲示板"http://myanimelist.net/forum/?topicid=1352652 "でも多く見かけるas a humanとかmaternal instinct、さらにはAnime Mother of the Yearという言葉に象徴されている理解だ。日本語サイトにも「田村玲子はお母さんになったんだ」「人間の感情というものを真に理解したように思える」といったコメントがある。それこそ地球上の生命はすべて家族のようなものだというフレーズを持ち出すことも可能だろう。一般的にはこうした理解の方が多いようだ。
実際「それでも今日、また1つ疑問の答えが出た」"http://xn--o9j0bk1145b4xyadgc.net/parasite-anime18-impression-1463 "というフレーズは、育てている子供に対する「お前は不思議だ」という疑問への答えだと見なすことができる。「不思議」と思った原因が田宮良子の肉体で生成されるホルモンなどの影響によって生まれた母性本能であり、その効果を身をもって理解した(倉森から子供を救い出した)結果としての「答えが出た」という発言だと考えても辻褄は合う。冷酷なまでに理性的存在だったのが、最期は生物の本能に引きずられて「人間的」な「母性」に目覚めたという話だ。それだけ自然選択の中で練り上げられた生物学的適応の力が強いと言うこともできる。 もちろん、そうでない解釈をしても構わない。フィクションは受け手が自由に受け止められる点に魅力がある。存在意義を見失ったでもいいし、共存の道を見つけて新一に委ねたと考えてもいい。少なくとも「食う」ためだけに生き続ける点に、あまり意味を見出していなかったのは確かだろう。生物にとって子孫を残すことに存在意義を見出すのは割とたやすいのだろうが、その手が使えない「細胞体」パラサイトにとって人生の意味を考えることは絶望につながりやすいのかもしれない。哲学的に考えすぎたが故の悲劇とも言えそうだ。
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