先行研究

 続き。セルパーレンの陥落時刻が早かったことを示すソースは何か。こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/eylau.html"では論拠としてOpérations du 3e corps"https://archive.org/details/oprationsdu3ecor00davo"に載っている第3軍団の記録(p160)や、モランの報告(p286)を上げ、それ以外にいささか信頼性は欠けるがマルボ回想録も紹介した。
 第3軍団関連では他にフリアンの息子が記した彼の伝記、Vie militaire du lieutenant-général comte Friant"http://books.google.co.jp/books?id=r7_-1jyM8vIC"にもこの話が載っている。それによるとフリアンは「敵がセルパーレンの右側にいるのに気づき、この村を取るため第48連隊のラコンブ少佐が指揮するヴォルティジュール4個中隊を送った」(p135)という。その後、彼はセルパーレンの麓からクラインザウスガルテンまで防衛線を敷き、ロシア軍の攻撃を撃退している。
 一方、連合軍側の記録については、上ではダヴィドフとエルモロフの回想録を論拠として示した。ただダヴィドフの回想録についてはフランス側の記録をそのまま写しているように思える面も多いため、どこまで信じていいかは分からない。エルモロフの本はそれよりはましで、ミュラの突撃より前にロシア軍左翼が後退を強いられたと読める。ただエルモロフはロシア軍右翼にいたため、彼の記録は目撃者証言とは見なしづらい。
 ベンニヒゼンは、セルパーレンが早くから攻撃を受けたが撃退に成功したとしている。その後、敵が多くの兵を集めてきたため、バガヴート将軍は「セルパーレン村に火をつけ」そこを放棄することを余儀なくされたそうだ("http://books.google.co.jp/books?id=WSsAAAAAQAAJ" p326)。実際には細かく見るとセルパーレンが落ちた時刻は書かれていないのだが、ミュラの突撃より後にこの件に触れていることは前にも記した。
 ロバート・ウィルソンも同様に最初の攻撃は撃退したとしているが、セルパーレン村に火がつけられたのはこの最初の戦いの時だという("http://books.google.co.jp/books?id=wU1KAAAAcAAJ" p102)。その後、レストク将軍の到着が期待されるタイミングにいたってようやくフランス軍がロシア軍左翼を迂回し、セルパーレンの放棄を強いられたとしている(p104)。ダヴィドフ、エルモロフはもとより、ベンニヒゼンと比べてもセルパーレン陥落時刻が遅かったと読み取れる主張だ。
 要するにフランス側が割と一致した主張をしているのに対し、連合軍側の指摘はかなりバラバラだと言える。連合軍が揃ってセルパーレン早期陥落を否定していない以上、現状は早期陥落説が優勢といったところだろう。だが決定的というほどでもない。
 
 そこで先行研究を調べてみた。まずは1907年出版のVon Jena bis Pr. Eylau"https://archive.org/details/vonjenabispreyl00goltgoog"を書いたvon der Goltzだ。英訳はこちら"https://archive.org/details/jenatoeylaudisgr00golt"になる。
 彼によればダヴー軍団の前衛だったフリアンは夜明け前にセルパーレン前面でコサックと遭遇してこれを撃退。さらにセルパーレン村に進んで夜明け、もしくは午前8時から9時の間にこれを奪ったという(p159、英訳p261-262)。Goltzの示した論拠は第3軍団の報告だが、それ以外にВоенный сборник"https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%BE%D0%B5%D0%BD%D0%BD%D1%8B%D0%B9_%D1%81%D0%B1%D0%BE%D1%80%D0%BD%D0%B8%D0%BA"というロシア軍の雑誌記事も活用したそうだ。残念ながら具体的にどの記事を使ったかまでは分からないが、ロシア側でもこの時期にはセルパーレンの早期陥落を主張した人間がいたことが分かる。
 同じことは1911年に出版されたИстория русской армии(ロシア軍史)"http://www.runivers.ru/bookreader/book9714/"という本でも指摘されている。この中で1805~07年までの対仏戦争についての記事を記したНазаров(ナザロフ)少将は、アイラウ戦では夜明けになるかならないかのタイミングでフリアン師団がバガヴートとの戦闘を始めたと指摘。一度は撃退されたフリアンが、モラン及びサン=ティレールの展開を待って再び姿を見せたため、バガヴートは「炎上するセルパーレンを去って」後退したと記されている(p72-73)。
 そしてもう1人はLoraine Petre。1901年出版のNapoleon's campaign in Poland"https://archive.org/details/napoleonscampaig00petruoft"には、フリアンが接近してきただけでバガヴートが村を撤収し、第48連隊のいくつかの中隊がここを占拠したことが紹介されている(p184)。Petreは脚注で、バガヴートが夜明けの攻撃を撃退したとベンニヒゼンが主張していること、及びウィルソンによればこの出来事がオージュローの攻撃後である点に言及している。とはいえ彼も本文ではダヴーの主張を採用しているわけで、Goltzやナザロフと基本スタンスは同じだろう。
 つまり連合軍側諸国(ドイツ、ロシア、英国)の後の研究者が、揃ってフランス側主張を採用しているのだ。ウィルソンやベンニヒゼンの主張よりもそちらの方が辻褄が合うとの判断だろう。Goltzは自著の脚注で「モラン師団はペルグシェンを早ければ2月8日の6時半に通過した。フリアンは彼より前におり、直接セルパーレンに向かっていた。ペルグシェンはセルパーレンからたった8500メートルしか離れていない」(p159、英訳p261)と書いている。早朝からセルパーレンに程近い位置にいたフランス軍が、早期にセルパーレンを落としたとしても不思議はないとの考えだろう。
 
 19世紀末から20世紀初頭はナポレオン戦争研究の全盛期だと言える。過去に紹介したフランス参謀本部の歴史関連本"http://www.napoleon-series.org/research/bibliographic/c_frenchstaff1.html"も、その多くがこの時期に出版されている。
 時間が経過するに従い、それまで表に出ていなかった史料が出てくるようになる。すると歴史家にとっては使えるツールが増える分だけ、充実した研究ができることになる。もちろん、一部の回想録のように史実というよりはノイズと言った方がいいデータも増えてくるわけだが、研究者側がきちんと史料批判をし、使い方を間違えなければ、問題になることは少ない。
 ただし研究者の数が減ってくると、ノイズが問題となる。きちんとノイズを見分けられる人物の絶対数も減ることになるため、ノイズが表に残りやすくなるのだ。そして研究者の減少は、時間が経過すればするほど避けられない事態となる。ナポレオン戦争は珍しく長期にわたって詳細な研究がなされてきた分野だと思うが、それも第一次大戦が起きるまで。その後、多くの人間は直近の大戦争に関心を移し、過去の大戦争だったナポレオン戦争を調べる人は一気に少なくなっていった。
 19世紀末から20世紀初頭という全盛期の研究者たちは、連合軍側の国籍を持っていても冷静に史料を分析しフランス側の主張に同意するだけの判断力を持っていた。もちろん、同時代にもノイズに惑わされた研究者はいたし、彼らの(内容的には問題のある)本も出版されている。それでもまともな研究者がいれば、相互に比較してどちらが正解かを調べることは可能だろう。だがその後は残念ながらノイズを取り除くことができなかった文献が圧倒的に多くを占めるようになる。
 そうこうするうちにさらに当該時代への関心は薄れ、強いミーム以外は忘れ去られていく。どれだけレベルの高いナポレオン戦争研究文献があるとしても、誰も読まなくなれば存在しないも同然だ。ナポレオン戦争はまだそうなっていないが、いずれはそういう時が訪れるのだろう。
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