前回は内容のいい加減なピケティ批判の例を紹介した。今回はむしろピケティ寄りの、しかしながら内容はやはりいい加減な記事を紹介しよう。AFP通信の記事"
http://www.afpbb.com/articles/-/3028048"ではOECDがまとめた報告書について、「調査では25か国の1820年以降の所得水準を調べ、世界が一つの国であるとみなしてデータを突き合せて比較したところ、世界の所得格差は東欧各国における共産主義の台頭などに代表される20世紀半ばの『平等主義革命』によって急速に縮小した後、拡大に転じ、2000年までに1820年と同じ水準にまで広がったことが分かったという」と記している。そのうえでピケティの議論と絡めながら世界の格差拡大に対する懸念を表明しているのだ。
でもこの記事にまとめられている説明と、実際の報告書"
http://www.oecd-ilibrary.org/economics/how-was-life_9789264214262-en"に載っている表を比較してみるとどうにもおかしいことが分かる。世界全体をまとめたジニ係数の推移をまとめた表が載っているのはこちら"
http://asset.keepeek-cache.com/medias/domain21/_pdf/media1807/283288-jq1lpqnbvf/large/11.jpg"なんだが、見ての通り世界全体のジニ係数(World Gini)は19世紀から次第に右肩上がりに上昇し、20世紀前半以降は高水準横ばいを続けている。「20世紀半ばの『平等主義革命』によって急速に縮小した後、拡大に転じ」た様子などどこにも見られない。
そういう傾向があるのは、実際はWithin country inequality、つまり世界的に見た「国内格差」の部分だ。そこでは確かに1929年に44だったジニ係数が50年から80年までじりじりと低下し、その後で急激に切り返して2000年に45まで(1870年や1820年の水準)上昇している。しかし同じ時期のBetween country inequality、つまり「国家間格差」を見ると、1929年の49が50年には55まで拡大。その後も55前後の高水準を続けている。ここでは戦後における格差の縮小と拡大などは見られない。
「国内格差」と「国家間格差」との違いは、下の方にある図1のグラフからも分かる。横軸に所得、縦軸に人数をとったこのグラフは、古い時期には1つのピークだけを持ち、右側が細長く伸びている形状をしていた。世界全体で見ると貧乏人が多く、少数の金持ちがいるという分布だったわけだ。変化が見られるようになったのは1950年のグラフ。ピークの右側にもう1つのピークが生まれつつある。60年になるとこの2つ目のピークはよりはっきりとしたものになり、70年、80年と高さを上げながら右へシフトしている。先進国の中間所得層が成長して1つの集団となり、世界的な多数派である貧乏人とは別のクラスターになったことが、このグラフから明確に見て取れる。
しかし2000年になるとグラフはまた変形し、かつてのような1つのピークに近づいてきた。グローバル化によって途上国の収入が増える(左のピークが右にシフトする)一方、先進国の中間層が没落して世界全体のピークに吸収されつつあるためだろう。むしろ途上国の住民にしてみれば、右側のピークがなくなった分だけ格差が減ったと見てもいいグラフだ。
もちろん論文の書き手は格差拡大が「国内」にあったことを指摘しているはずだ。だが記事にまとめた側が「国内格差」を「世界の所得格差」と誤解を招くような表現にしてしまった。英文の記事"
http://www.afp.com/en/news/global-income-equality-now-back-1820s-levels-oecd"を見てもwithin countryという言葉がなく、翻訳記事ではなく元記事自体に問題が含まれていることが分かる。記者が「国内格差」であることを理解しながら記事でそれに触れなかったのか、そもそも理解していなかったのか、そのあたりは分からないが、「世界の貧富の格差が拡大」という見出しをこの論文から導き出すような記事を書くことは不誠実だと思う。
どうしてこうなるのか。著名人は効率のいいアウトプットのために斜め読みや孫引きに頼っていたが、記事の場合にはさらに別の淘汰圧がかかっている可能性がある。つまり「面白い記事にしろ」という圧力だ。ややこしい話の中身をきちんと紹介した記事が面白くなる保証はない。だったら最初から適当な部分だけ抜き出し、説明は省略し、読者が食いつきそうな煽り見出しを立てればいい。そういう記事なら「売れる」からだ。要するにPVを欲しがる匿名掲示板まとめサイトがいつもやっている手法である。
もちろん、この記事がそうした意図をもって誤解を招くような書き方をわざとしたかどうかは分からない。そうではなく論文を理解しきれなかった記者が、本気でこういう内容が書かれているのだと思い込んで記事にした可能性もある。いずれにせよダメな記事であることは確かだが。
それよりは誠実だろうと思うのが、こちらのインタビュー"
http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20140909/271039"。予めピケティ本を全部読んだわけではないと断ったうえで話を進めているので、読者もそんなもんだろうと話半分に聞くことができる。実際、その指摘の中には、もしかしたらピケティ本に載っているんじゃなかろうかと思われるものもある。
例えばインタビューでは「資本主義は必然的に格差を生む」との議論に対して「半分正しくて半分間違えている」と述べ、「人間の活動というものは、必然的に格差を生む」という方が正しいのではないかと指摘している。だがピケティが示しているこちらのグラフ"
http://cruel.org/books/capital21c/pdf/F10.10.pdf"を見ると、その対象期間は西暦紀元前後から2100年まで。ピケティが資本主義以前の時代にも目配りしていることが分かるグラフであり、もしかしたら既に資本主義以前から同様の傾向があったこともこの本で指摘されているかもしれない。
「リスクを取ることが出来るのは金持ちである」点が格差を生むメカニズムとして重要ではないか、というのがインタビューの中にある。だがこれもピケティは「一応本で言及している」らしい。だとすると、実はよく読んでみたらそうした点も考慮したうえで議論を展開していることが分かった、というオチが待っている可能性もある。とにかく安易に結論に飛びつくのは控えておいた方がいいんだろう。
事実として格差が拡大しているとして、それの何が問題なのかという議論もある。個人的には、負け組と化した者たちが共同体への帰属意識を失い、結果として共同体が危機に陥った時に弱体化してしまうことが問題だと思っている。上のインタビューでは勝ち負けをはっきりさせ、そのシステムに最適化してしまうと「ものすごくショックに弱い個人、組織、国家をつくってしまう」リスクがあると話しているが、そういう説明もできるだろう。ピケティ自身もこちら"
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_1017.html"で「格差が行きすぎると、共同体が維持できず、社会が成り立たなくなるおそれがある」と話している。
要するに戊辰戦争時の会津藩、帝国主義時代に列強の食い物にされたアジアの古い帝国のような存在になってしまう恐れがあるのだ。組織、国家のシステムから利益を得る人間が少数に限られてしまうと、その少数以外は組織や国家を守る意思を失う。格差の大きな社会は、平和な時ならいいが、動乱の時代になると民衆に見捨てられあっさり崩壊しかねない。板垣退助の言葉"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53974795.html"が現実になってしまう。
だからこそ格差は「国家間」より「国内」で深刻な問題になりやすいのだろう。他者との間に大きな差があったとしても、それは上手くすればむしろ組織や国家が強くまとまるインセンティブになる。容易に崩壊することはないだろう。だが国内格差は違う。システムから疎外された負け組がシステムに背を向けることで、最後は組織や国家の土台が腐る。そうなりたくなければ、格差の問題にはきちんと目を向けた方がいいんじゃないだろうか。
コメント