閑話休題。さてこのように読み手が好む物語が普及するとどうなるか。時間が経過するとやがて史料が散逸し、失われるものが増えてくる。実際、ナポレオン戦争はまだしも中世の戦争になるとろくに史料が残っていないものが多いし、古代になるとアレクサンドロスの事跡のようにほぼ数百年後の二次史料に頼るしかないものも出てくる。そして、残る確率が高いのは歴史的に見て妥当な史料というより、広く人口に膾炙し大量にコピーが残されたであろう文献、強いミームを持つ文献だ。ミームの強さと書かれていることの事実性とは相関しない。
当事者の思惑と聞き手の好みがいつも一致するとは限らない。だから当事者が思い描いた通りの嘘が通用することも、逆に通用しないこともあるだろう。でも聞き手がしばしば自らの嗜好を優先し、史実を簡単に無視するのは事実。結果として嘘の物語が事実として後々まで語り継がれ、やがてそれが嘘である証拠の方が先に散逸し失われてしまう。そうなればもはや手の打ちようがない。残された史料にしか頼れない後世の人間たちにとっては、嘘の物語こそが史実になってしまう。
歴史とはそういうリスクを含んだものだ。だから「歴史に学べ」という言説に対しては眉に唾をつけておくべきだろう。「嘘を信じろ」と言っているのと同じである可能性が常につきまとうからだ。嘘を信じて得することはほとんどない。孫子曰く「知彼知己者、百戦不殆」"
http://kanbun.info/shibu02/sonshi03.html"。嘘を信じる人間は「敵を知ろうとしない」人間であり、つまり好んで自らを危険に晒しているのである。
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