ナポレオン漫画はアイラウに突入。とはいえ前にもマルボの話でアイラウのシーンが出てきたので、あまり「待ってました」という感じはしない。オージュローの妻の話も前に使っていたし。という訳で今回はアイラウの戦いそのものではなく、その前の話を。
ベルナドットの第1軍団に対する命令を出す際に、「疲れていた」ベルティエが「士官学校を出たばかりでポーランドにも不案内だった」将校に命令書を渡してしまったこと、そしてこの伝令がコサックに捕らわれてフランス側の計画が漏れたことは、色々な本に書かれている。例えばChandlerのCampaigns of Napoleon"
http://books.google.co.jp/books?id=hNYWXeVcbkMC"ではこのシーンが以下のように書かれている。
「運命の変転か、ベルナドット元帥に対する命令の写しの1つを、疲れたベルティエが手近にいた最初の士官に委ねた。たまたま彼はフランスの士官学校を卒業し新たに任命されたばかりの若い尉官であり、初めて自らの部隊に合流すべく向かっているところだった。ポーランドについて全く知らなかったこの士官がすぐ迷ったのは驚くことではなかった。彼は貴重な伝言を破壊できる前に、ラウテンブルク近くを動き回っていたコサックの集団に捕まる運命だった」
p531
「[ベルナドットの報告]あなたが私宛てに31日付で送り出したという命令は、私のところに届いていません。それを運んでいた士官たち(officiers)はラウテンブルクでコサックに捕まりました。私の偵察が町に入ったところ、そこの住人がその旨を知らせてきました。あなたの直近の手紙を私に運んできたステック大尉も、そこを通過した際に確認を取っています。[捕らえられた]者たちは士官学校の若い2人の士官でした」
「[ベンニヒゼンの回想]2月1日朝、中将バグラチオン公が奪った命令を私に送ってきた。コサック兵の登場を全く予想していなかったラウテンブルクの町に不意に突入し、奇襲によって身柄を押さえた1人のフランス人士官からコサックが見つけ出したものだった。これらの書類には1807年1月30日真夜中付の陸軍大臣[ベルティエ]からポンテ=コルヴォ公への命令が含まれていた。1日から2日にかけての夜間には、ヴィレンベルクの陸軍大臣からポンテ=コルヴォ公に対して1人目が捕まったのと同じ道を経て送り出された士官からコサックが奪った2通目の命令書を、バグラチオン公が私に送ってきた。この命令は敵の意図と全作戦計画を明らかにした」
p100
ベルナドットは捕らえられたのが2人と明言している。ベンニヒゼンは時間を隔てて2人の士官が捕らえられたと書いている。そして興味深いことに、ベルナドットは「31日付」の命令が奪われたと報告しており、一方ベンニヒゼンは最初に奪ったのが「30日付」の命令だとしている。2人の士官がそれぞれ30日付と31日付の命令を運び、相次いで捕まったのだと考えれば辻褄が合うのだ。
この推測を裏付ける史料は他にもある。ロシア軍に同行していた英国の連絡将校ロバート・ウィルソンが書いたBrief remarks on the character and composition of the Russian army"
http://books.google.co.jp/books?id=wU1KAAAAcAAJ"がそれである(p88-89)。ウィルソンが言及しているのは「1人のフランス人士官」だけであり、その命令には「ブオナパルテが攻勢再開を決断し、フランス軍がヴィレムベルクに集まること、そこに皇帝も31日に行くこと」などが記されていたという。そして結語に「皇帝がロシア軍をその国境から切り離そうとしていることが分かるだろう」と書かれていたのだそうだ。
ウィルソンが2つの命令を混同していることは、実際のフランス側の命令文を見れば分かる。マテュー・デュマのPrécis des Évènements militaires"
http://books.google.co.jp/books?id=XH4vAAAAMAAJ"には問題となっている2通の命令書が掲載されている。うち30日付の手紙には「2月1日に彼[ナポレオン]はフィレンベルクを経て攻勢を行う」と書かれているが、ロシア軍に対してどのような意図を持っているかは書かれていない(p374-375)。一方31日にフィレンベルクで書かれた手紙には「陛下が敵を切り離そうと望んでいることは改めて述べるまでもない」との一文がある(p381)。2つの手紙両方が揃って、初めてウィルソンが紹介している文面が成立するのだ。
この31日付の手紙はベルナドットに対する命令だけでなく、ミュラ、スールト、ネイ、ダヴー、オージュローといった大陸軍の他の軍団に関する言及が多いのも特徴だ。30日付の命令書だけではベンニヒゼンのいう「敵の意図と全作戦計画」を掴むことはできないが、31日付の命令があればそれが可能になる。もう明らかだろう。コサック部隊は30日付の命令を運んでいた1人の士官、及び31日付の命令を運んでいたもう1人の士官と、合わせて2人のフランス人士官を捕虜にしたのである。大金星だ。
ベルナドットが「命令が届いていない」と言っていることかわ分かるように「命令は1通のみしか送られなかった」(Petre, p147)。ベルティエが複数の伝令を送り出していたという話が伝説に過ぎないことを示す、これも1つの証拠だろう。他にもこちらのblog"
http://grenada2.blog.fc2.com/blog-entry-36.html"で同じ指摘がなされている。そもそも「1ダースの伝令」というフレーズ自体がベルティエとは無関係のところから生まれたことは過去にも指摘した"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/53652629.html"。
だがこの件についてベルティエだけの責任を問うのは実は難しい。捕らえられたのが1人で、それが未経験な士官だったのならベルティエの人選が拙かったことになる。だが捕まったのは2人であり、ベルナドットによれば2人とも士官学校の生徒だった。1回なら偶然かもしれないが2回連続となると怪しい。少なくともただの偶然でない可能性を疑う必要はある。そしてこれはおそらく偶然ではない。
アイラウの3ヶ月近く前、ナポレオンはベルリンでベルティエ宛に命令を出した。その中で彼は、1806年戦役で消耗した幕僚士官の穴埋めを通常の部隊に所属する士官で行うことを禁止し、使い物にならない幕僚士官は「年齢、教育及び知性の点でより報告書提出の能力がある[士官学校の]若いものたちと交代させよ」(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Treizième"
http://books.google.co.jp/books?id=UK3SAAAAMAAJ" p548)と命じている。ベルティエが未経験な士官を使ったのは、彼の周囲に未経験な士官が多かったためだと思われるのだ。
Bastardが書いているように「ベルティエはもっと[伝令を]上手く選ぶべきだった」(Revue d'histoire, p101)のは確かだろう。でも「ベルティエに完全な責任があるわけでない」のも間違いない。この件についてはナポレオン自身も責を負うべきだと思われる。
コメント
No title
そして一番の責任はやはりナポレオン自身と。
2014/09/28 URL 編集
No title
2014/09/29 URL 編集