中世の戦争と政治体制

 前回の話と関連するのだが、Outer Zoneにおける戦争の形態ってのは、結局戦争の主体となる政治体制のあり方に規定されているんじゃなかろうか、という話について。効率の悪い政治体制下ではそれに見合った戦争のやり方が採用され、効率が高まればそれにふさわしい方法が使われる。全体として後者の方が前者の軍より強い。従って生き残りの必要性から政治体制の効率性を高めていくことを強いられた事例もありそうだ。
 中世の封建制とは、要するに中央政府が全国まで目を届かせることができない体制だと言える。効率的で集権的な政治体制が築けないからこそ、各地の領主に統治を委ね、代わりに軍務を始めとしたサービスの供与を義務づけている。封建制における戦争は、だから封建領主たちが提供するサービス、たとえば年に40日間の軍務("http://books.google.co.jp/books?id=ekUXy54iTjUC" p11)を利用して行われる戦争となる。
 小さな単位で動員するとなると、例えば国単位での動員などに比べればどうしても効率は落ちる。こちらの本"http://books.google.co.jp/books?id=mzwpq6bLHhMC"によると、例えばカール大帝の国では潜在的に30万の騎兵を動員する力があったが、実際にカールが率いた最大の軍勢でも戦闘員の数は5000人から6000人にとどまったとの推計がなされているそうだ(p66)。中世に最大の動員が行われたのはおそらく第1回十字軍だが、それでも数は4万~6万人。通常は多くて1万人程度の規模にとどまった。
 Omanが描き出した欧州中世の戦争における騎兵の優位は、実際にはむしろ歩兵の弱体化が原因であり、その背景に兵力縮小があるとの説も見かける("http://books.google.co.jp/books?id=4jvgO9op-igC" p226)。強い歩兵を作るにはどうしても数を増やす必要がある。だが中世の政府は弱体で動員できる兵力が限られていた("http://books.google.co.jp/books?id=-qH1u1Ca-1IC" p6-)。数が少なければ歩兵より騎兵の方が効率がいい。こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/49163917.html"で指摘したマムルークとフランス兵の関係は、一般的な歩兵と騎兵の関係に還元されるということだろう。
 日本ではどうか。例えば保元の乱における兵力を記した兵範記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918082"を見ると「軍兵都六百余騎」「清盛三百余騎(中略)義朝二百余騎(中略)義康百余騎」(64/182)と書かれており、騎兵の数だけが記録に残っている。徒歩の兵がいたかどうかすら分からない状態だが、この程度の規模だと騎兵が圧倒的に有利ということを示している可能性はある。
 また規模が小さければ、集団戦の戦術より個々人の武勇の方が戦闘結果に影響を及ぼしやすくなるだろう。保元の乱における為朝の活躍は軍記物語に描かれたものでそのまま信じることはできないものの、兵範記には為朝を捕らえた人物が特別の恩賞に与ったことが記されており(71/182)、実際にある程度の個人的武勇を誇っていた可能性はある。「戦いにおいては、無謀な勇気の囁きを除いては何も聞こえなくなった」"http://trushnote.exblog.jp/14817243/"としても、数の少ない戦力同士の争いならそれで充分だったのだろう。
 
 戦術があまり意味を持たない戦場では、兵種別編成にこだわる意味は限定されるだろう。「兵士たちは彼ら自身の指揮官の下で戦い、自ら鎧と武装を賄う」("http://books.google.co.jp/books?id=ekUXy54iTjUC" p11)。つまり領主別編成だ。少なくとも行軍中と戦闘の前においては「騎士たちは自らの主君が指揮する部隊に分けられていた」("http://books.google.co.jp/books?id=-qH1u1Ca-1IC" p7)そうで、このconroiと呼ばれた小集団が集まってbataille(Omanの言うbattle"http://trushnote.exblog.jp/14800860/")という戦闘単位を形成していた。
 日本ではどうか。例えば鎌倉時代に書かれたとされる保元物語"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544520"では、各地から集まった領主たちがどのように編成されたかが書かれている(25-26/28)。それによると清盛や義朝が各地の豪族を集めて数百騎の兵を従えていたのに対し、源季実、平維繁といった連中は数十騎の兵力と書かれている。領主別編成であったことを窺わせる数値だ。兵範記に記された実際の保元の乱における編成とは数字も内容も異なるが、鎌倉期の人間たちが領主別編成に対して違和感を抱いていなかったことを示す一例となろう。
 ただし、常に領主別の編成が行われていたのかどうかというと、それは明白ではない。例えばヘースティングスの戦いにおいても、封建的義務によって提供された軍だけでなく、旗本(household)や傭兵といった非封建的な兵力が重要な役割を果たしたという指摘がある("http://books.google.co.jp/books?id=4jvgO9op-igC" p79)。彼らの編成は領主別ではなかっただろう。
 中世後期になると一段とそうした傾向が強まったようだ。英国の軍編成を調べた例"http://books.google.co.jp/books?id=hdFzDcnlUp4C"においては、封建的軍務によって動員された連中が軍の中で「単一の部隊」として扱われたのか、それとも軍の中でそれぞれの部隊に「分散」されたのかははっきりしないという。だが歴史家の中には13世紀の事例に基づいて「集結が完了すると[封建的に動員された]兵たちは様々な隊長や指揮官たちの間で分配された」(p166)と主張する向きもある。一方で14世紀になっても領主別編成が行われたと見られる事例も残っているようで、一概に決め付けるのも難しい。
 ここで注目すべきなのは、旗本や傭兵でなく封建諸侯が集めた軍勢がいつから兵種別編成に従うようになったのかだ。検証長篠合戦"http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b180953.html"では、信長が土豪層を旗本化する過程で、家族を人質に出していなかった連中の私宅を焼き払った話を紹介している(p189-190)。武田家でも信虎が家臣の城下集住に反発した国衆の反乱を鎮圧している。国衆と戦国大名、封建諸侯と国王の間では権力を巡る綱引きがあり、やがて大名や国王が強くなり封建領主たちが服従するようになっていった中で兵種別編成も普及していったのだろう。
 そしておそらくは戦争自体がこうした流れを加速していたように思われる。「集めにくく、服従心に欠け、作戦能力は無く、わずかな勤務期間が終わればすぐに立ち去ろうとする」"http://trushnote.exblog.jp/14817243/"封建軍隊は、より集権化され戦術を使いこなしやすい軍隊を相手にすると勝ち目が薄れる。封建領主がいつまでも君主に反対し続けた国は弱体化し、淘汰されてしまう。生き残るのは封建領主を押さえ込み、より効率的な政治体制と軍隊を作った国。中世とはそうした流れに彩られた時代だったのではなかろうか。
 
 中世が終わり近代が訪れると、もはや建前上の封建的軍務すらほとんど姿を消す。封建諸侯から独立的な権力を奪ってしまえば、もう彼らを通じて軍を集める必要もなくなる。旗本は常備軍となり、戦時に必要となる戦力は傭兵で賄う仕組みが欧州では一般的になる。その傭兵も最初のうちは封建領主が傭兵隊長となって兵隊集めを仲介するケースが目立つが、三十年戦争が終わる頃にはその仕組みもなくなり国家が直接兵を集めるのが当たり前になる。中間層である封建領主をすっ飛ばす動きが強まるのだ。
 地方に割拠していた封建領主はやがて首都に「集住」し宮廷貴族となる。日本ではその途中で戦争が終わったため参勤交代という中途半端な封建制が残ったが、欧州の宮廷貴族たちは不在地主化しその権力は地域にではなく王宮に由来するようになった。
 国家の効率は高まり、絶対王政の軍は中世に比べて大幅に増加する。だがそれでも効率向上の流れは留まらない。この時点で君臨すれど統治しない国王を持つ英国が、財政=軍事国家"http://www.unp.or.jp/ISBN/ISBN4-8158-0465-6.html"として成功したことは大きな意味を持つ。国家組織を動かす官僚制と、それを支える経済力があれば、国王はいなくても効率のいい政治体制は構築できるのだ。いやむしろ恣意的な介入権限を持つ絶対君主は、効率性にとって邪魔だとすら言える。
 かくして既に穀潰しと化していた貴族たちとともに国王もまた実権を奪われていく。個人ではなく抽象的なネーションこそが主権の持ち主となり、ネーションに忠誠を誓う国民たちまで軍務に動員される。戦争の歴史には、実はこうした背景があると考えられる。
 
 以上はあくまで個人的な思いつきだ。実際にはInner Zoneはどうだったのかとか、武器の発展(特に火器)が歴史の流れにどんな影響を与えたかなど、他にも考えてみたいことが色々ある。ただ全体として、西欧であれ日本であれOuter Zoneでは割と似通った歴史の流れがあるように思える。
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