まずはChaseがFirearms"
http://www.cambridge.org/us/academic/subjects/history/regional-history-1500/firearms-global-history-1700"で指摘した天下統一における雪玉効果(snowball effect"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54574415.html")について。Chaseは日本における銃砲の採用を1人か2人の天才によるものとは見なさず、多くの人口とリソースを所有する大名が、それを活用して優位をさらに拡大する傾向を指摘した。欧州ではこの雪玉の拡大を要塞が妨害したが日本にはそうしたものがなく、また戦国時代の日本には京都を含め畿内に大都市が集中していたため、その資源を手に入れた織田信長の優位が圧倒的になったことを指摘している(p183-185)。
検証長篠合戦の指摘も、実はChaseと共通している部分が多々ある。この本は長篠で戦った武田と織田・徳川の間には量的な差はあったが質的な差はなかったと主張している。従来から言われていたような「武田氏は鉄砲を軽視していた」「信長の軍勢は兵農分離が進んでいたが武田は遅れていた」という指摘は事実とは言えず、武田も織田も戦国大名としての性格は非常に似通っていた。違うのは山国中心の武田に比べ、畿内を押さえた織田がはるかに大きなリソースを持っていたこと。国力の差がそのまま戦闘結果になって出てきたとの見方だ。
それが典型的に現れているのが、弾薬の調達だ。鉄砲そのものの入手にも苦労し、時には敵である徳川方の商人からすら鉄砲を入手しようとしていた(p110)が、それでも鉄砲は一度手に入れれば簡単に壊れるものではない。しかし弾丸と火薬という消耗品はそうは行かない。この本では武田が弾薬をあの手この手で苦労して集めていた様子を細かく説明している。特に弾丸の材料になる鉛不足は深刻だったようで、その分を穴埋めするため銅銭を鋳潰した銅玉を使っていたことまで指摘されている(p120)。
一方、織田側の史料はあまり充実していないが、それでも信長公記などには鉄砲に関する記述が色々とあるそうだ。中でも注目したいのは、上洛を機会に鉄砲装備が増え使用が活発化している点(p51)。信長は若いころから鉄砲を習い、戦場でも使っていたが、Chaseが指摘している人口集積地を手に入れたことによって質ではなく量的優位を得たことが窺える。また長篠戦場で発見された弾丸の鉛を分析すると国内だけでなく中国や東南アジア産の鉛も使われており、信長が国際的なネットワークまで使っての弾薬調達を行っていた様子が窺える(p73)。
長篠の結果に弾薬量が影響した点は、戦い後に武田が事前に準備する弾薬量を1挺につき300発にするよう命令を発していることからも窺える(p129)。ただでさえ兵力、鉄砲数で上回っていた織田・徳川軍は、使用できる弾薬の量でも武田側を大きく上回っていたというのが著者の推定だ(p232)。信長は物量で敵をすり潰すという、第二次大戦のソ連や米国のような戦いをしたことになる。
兵農分離についても、武田と織田に大きな差はなかったと著者は見ている。いずれも旗本鉄砲衆の整備を進めているが、一方で実際には多くの鉄砲を配下の領主たちから銃手と一緒に拠出させ、それを集めて鉄砲隊を編成するという「諸手抜」(p58)という方法を多く採用している。兵を集める時は封建的制度を活用するが編成時には兵種別で行うという点では、以前紹介した「戦国の軍隊」で指摘されていた話"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54538081.html"と同じだ。
つまるところ長篠合戦は、大きな雪玉が小さい雪玉を踏み潰した戦いだった。どちらも同じ雪で出来ているが、サイズの違いがものを言ったというわけだ。
戦国時代の合戦形態についても分析している。それによるとまずは矢軍(やいくさ)から、鉄砲導入後は鉄砲競合(てっぽうせりあい)から戦闘が始まり、やがて両軍が接近すると打物戦(つまり白兵戦)へ移行することもあったという(p205)。以前紹介した林子平らの指摘"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54483622.html"、あるいは朝鮮王朝実録に紹介されている日本軍の戦術"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54487441.html"と同じだ。
ただし著者の紹介する実例の中には打物戦に至る前に終わったものも目立つ。1524年の武田と北条による猿橋での戦闘、信長による1553年4月及び8月の戦闘、小牧・長久手における森と奥平の戦闘などがそうで、他に1576年の本願寺軍と信長軍の戦闘もそうであったように読める(p205-207)。もちろん打物戦まで到ったものも数多くあり、そこでは鑓衆相互の勝負で「勝敗が決まったようである」(p208)としている。騎馬隊の突入、いわゆる「乗入れ」も、特に東国では珍しくなかったようで、いくつもの事例が見つかるとしている(p160-164)。パイクだけでなく騎兵による白兵戦もあったというわけだ。
そこから窺えるのは、戦闘の発想法としてやはり白兵が主、鉄砲は従という発想だ。矢軍で勝負が決まることもあるが、結局は接近しての白兵戦こそが大切という考え方であり、以前指摘したように「[銃は]補助的な武器」としていたスイスのハルバード兵と同じ戦闘方法である。著者は甲陽軍鑑や雑兵物語において、両軍が接近すると鉄砲は前線を槍に譲り、自らも刀を抜くか左右に退いて支援に回ると書かれていることを指摘している(p208)。主力である銃を守るためパイクを使うテルシオ的発想と異なることは確かだろう。
甲陽軍鑑における戦功で一番槍、二番槍が最も高く評価されている(p219)のも、そうした指摘と平仄が合っている。甲陽軍鑑については内容が信頼できないとの指摘もあるが、著者は使い方次第では充分に有用だとしており、軍鑑批判派の中にも「武家故実や戦国人の習俗などの記述」(p35)は史実を伝えているとの見解があることを述べている。著者の見解に従うなら戦国時代の戦闘は林子平が描いたものに近かったことになる。
それにしても一番槍を最大の功名とする文化において、果たして鉄砲を主、槍は従という発想は生まれ得ただろうか。そこまで鉄砲が広まる前に戦国時代が終わってしまったため、西欧と同様の変化が生じたかどうかを観察することはできなくなった。だが個人的には充分あり得たと思う。功名の文化があるとしても、それは実際の戦争で勝たなければ存続できない。織田が本願寺との戦争を通じて1000挺を超える鉄砲の使用に慣れたように、武田が長篠後に300発の弾薬を用意させたように、そして前にも述べた"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54574415.html"が時とともに軍内における銃兵の比率が高まってきたように、戦争の多い時代には効果的な武器がすぐに広まり主役となっていく。戦国日本がスイスのハルバード兵的段階にとどまっていたのは、文化が原因ではなくテルシオ段階に移行できるだけの鉄砲が普及する前に戦争が終わったためだろう。
コメント