ネイからロボーへの命令

 de Wit関連で、今回はナポレオンがプロイセン軍の接近をどうやって知ったかについて見てみよう。この件についてはシャペル=サン=ランベールが見えたか否か"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/lambert.html"、そもそもナポレオンはプロイセン軍の接近に気づいていたのか"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/38802958.html"など、色々と通説に対する異論が出されている。特にBernard Coppensによる指摘"http://www.1789-1815.com/"はこれまでも何度か取り上げてきた。
 そしてde WitはCoppensの説を真っ向からぶった切っている。彼はまず、午後1時半にスールトがグルーシーに宛てて記した命令書を紹介しているのだが、その際にCoppensが疑わしいとしているHoussayeの見つけた手紙("https://archive.org/details/1815waterlo00hous" p343-344)の文章を掲載("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/intro.pdf" p4-5)。グルーシーの子孫からHoussayeが手に入れたとしているこの手紙の妥当性を事実上容認している。
 そのうえでCoppensを分析。Coppensがこの手紙を偽者としている理由は(1)グルーシーが1818年に出版したもの("http://books.google.co.jp/books?id=DghAAQAAMAAJ" p17)と文章が一致していない(2)幕僚の登録簿に記されていない(3)フランス軍の幕僚はシャペル=サン=ランベールのビューロー軍を見ることができなかった(4)主力軍がどこにいるかをグルーシーが見つけなければならないといった文章を使う命令など意味不明である(5)文章はセネカル及びブロックヴィユの記録と一致しない――ことにある。
 この主張に対しde Witは「Coppensがばかばかしい理論にたどり着いたのは、(間違いなくスールトの筆跡である)オリジナルの文章と、1818年に米国で出版されたグルーシーの不正確なバージョンを比較してさかさまの結論に達したためである」("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/intro.pdf" p14)と批判。セネカルとブロックヴィユの記録を「極めて不正確」としたほか、登録簿に記されていないことが命令文の不在を証明するものではないとも指摘している。
 さらに主力軍の位置をグルーシー自身に発見しろと言っているのは、この命令がグルーシーに届く頃にはワーテルローでフランス軍が勝利し、連合軍を追撃している可能性を踏まえていたためだとも指摘している("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/obs.grouchy.pdf" p2)。午後1時の時点ではまだプロイセン軍がワーテルローへ向かうつもりだったことは判明しておらず、だとすれば正面の連合軍を破るのは容易だとナポレオンは思っていたのだろう。前回書いたように、ナポレオンがデルロン軍団に続いて第6軍団や騎兵、さらには親衛隊まで使って一気に連合軍を突破しようと考えていたのが事実なら、確かにそう解釈することもできる。
 
 de Witの指摘が正しく、午後1時半にスールトが出した命令(Houssayeが発見したもの)が偽物でないのだとしたら、ナポレオンがこの時点でプロイセン軍の接近に気づいていなかったというCoppensの説は間違っていたことになる。ではそれを裏付ける証拠はあるのだろうか。
 まずde Witが持ち出すのは、午前中の時点でシュベルヴィーの騎兵がシャペル=サン=ランベール付近でプロイセン軍に接触していた、という話だ("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/frhfdkw(1).pdf" p3-4)。そのソースは公報"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_nap.html"だそうで、確かに公報の中には「我が軍の右側面を襲う意図を持ったプロイセン軍」について「我が方の報告」で知ることになったと書かれている("http://books.google.co.jp/books?id=Nk4EAAAAQAAJ" p88)。ただ公報にはシュベルヴィーの名は出てこない。彼の名が出てくるのはセント=ヘレナのナポレオン回想録"http://books.google.co.jp/books?id=EwybhMCEkzYC"だが、そこでのシュベルヴィーはあくまでナポレオンがプロイセン軍を目撃した後に偵察に送り出されたことになっている(p137-138)。
 次に1時半の命令を出す前にプロイセン軍の捕虜が連れてこられた("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/intro.pdf" p4)。このソースは同じナポレオンの回想録であり、またボーデュの本"http://books.google.co.jp/books?id=0LhBAAAAcAAJ"も紹介されている(p225)。ボーデュによれば捕虜になったのはプロイセン騎兵の軍曹だったことになるのだが、ボーデュの本は1841年出版。またモーデュイの本"http://books.google.co.jp/books?id=aq07AAAAMAAJ"にもプロイセン軍のユサールが捕虜になった話が出てくる(p288)が、こちらの本は1848年出版であり、要するにどちらも新しい。
 ついでにマルボは回想録"http://books.google.co.jp/books?id=uPZAAAAAYAAJ"で、この捕虜を捕らえたのは自分だと主張している(p406)ようだが、これはde Witも信じられないと切り捨てている。
 要するに証拠の多くはセント=ヘレナのナポレオンや、あるいは四半世紀以上後に出版されたものばかりなのである。これだけでは信じるのは難しかったかもしれない。だが2013年になって、とある史料がカナダで発見された。この史料はフランス亡命貴族の手によってカナダへと伝えられ、さらに色々な人の手を経て2011年にLord Russborough's Annexというサイトの運営者が購入した("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/frhfdkw(1).pdf" p11)。この史料が、プロイセン軍の接近に関するフランス軍司令部の認識について、かなり重要な証拠になった。
 件の史料はこちら"http://www.russborough.com/omnium_g/manuscripts/ney-waterloo-dispatch.html"で映像、及び英訳文(フランス語は"http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/frhfdkw(1).pdf"のp4)を見ることができる。冒頭と日付が欠けており、本文はネイの署名とは異なる筆跡だ。内容は以下の通り。
 
「英国軍はソワーニュ森の正面にあるモン=サン=ジャン上に集まっている。もしプロイセン軍がソワーニュ森の背後に退却するのなら、そなたは1000騎の騎兵をその背後に送り込み、兵とともに我らと合流せよ。もし彼らが森の前、モン=サン=ジャンへ来るつもりなら、防衛線を敷き進路を妨げよ。
 ネイ」
 
 de Witはこの命令が出された時刻を6月18日の午前10時半頃と想像しているが、見ての通り史料には時間が書いていないため断言はできない。ただしその内容からして、プロイセン軍が実際に戦場に到着した夕方以降に書かれたものではあり得ない。また前回記したように、デルロン軍団の攻撃開始にあわせるように第6軍団をモン=サン=ジャン近くに動かしたのが事実であるなら、それ以降に出す命令としても不自然だろう。de Witがこの命令の出た時間を午前中と解釈したのはそれが理由ではなかろうか。なおLord Russborough's Annexのサイトもこの文章は午前中に書かれたとしている。
 この史料と、さらにHoussayeが見つけた史料の筆跡がスールトのものであることがいずれも確かであるならば、フランス軍司令部がプロイセン軍の存在に全く気づいていなかったというCoppensの説は成立しなくなる。彼らは午前中から右翼方面にプロイセン軍がいることを知っており、さらに午後1時半までにはプロイセン軍のビューローが戦場へ向かって移動していることにも気づいていた。にもかかわらず第6軍団をデルロンの背後へと移動させたのは、ビューローの到着前に英国連合軍を倒せると考えたからだろう。つまりここでもde Witは、ラ=エイ=サントの陥落時刻同様、通説に従い異論を排している。
 
 ただし、ナポレオンがプロイセン軍の存在に気づいていたとしても、それに危機感を抱いていたとはいえない、というのがde Witの指摘。("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/obs.posnap.pdf" p6)。グルーシーに1時半の命令を出した時点でフランス軍はまだ本格的な攻撃を始めたばかりであり、状況はまだ緊迫していなかった。皇帝がグルーシーに接近するよう伝えたのは、翌日以降の連合軍の対応も考えてフランス軍がいつでも連携できるようにする方が望ましいと判断したため。切迫するプロイセン軍の危機に対応するためという説は、あくまで後知恵に基づくものでしかない、とde Witは考えている。
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