「英国軍はソワーニュ森の正面にあるモン=サン=ジャン上に集まっている。もしプロイセン軍がソワーニュ森の背後に退却するのなら、そなたは1000騎の騎兵をその背後に送り込み、兵とともに我らと合流せよ。もし彼らが森の前、モン=サン=ジャンへ来るつもりなら、防衛線を敷き進路を妨げよ。
ネイ」
de Witはこの命令が出された時刻を6月18日の午前10時半頃と想像しているが、見ての通り史料には時間が書いていないため断言はできない。ただしその内容からして、プロイセン軍が実際に戦場に到着した夕方以降に書かれたものではあり得ない。また前回記したように、デルロン軍団の攻撃開始にあわせるように第6軍団をモン=サン=ジャン近くに動かしたのが事実であるなら、それ以降に出す命令としても不自然だろう。de Witがこの命令の出た時間を午前中と解釈したのはそれが理由ではなかろうか。なおLord Russborough's Annexのサイトもこの文章は午前中に書かれたとしている。
この史料と、さらにHoussayeが見つけた史料の筆跡がスールトのものであることがいずれも確かであるならば、フランス軍司令部がプロイセン軍の存在に全く気づいていなかったというCoppensの説は成立しなくなる。彼らは午前中から右翼方面にプロイセン軍がいることを知っており、さらに午後1時半までにはプロイセン軍のビューローが戦場へ向かって移動していることにも気づいていた。にもかかわらず第6軍団をデルロンの背後へと移動させたのは、ビューローの到着前に英国連合軍を倒せると考えたからだろう。つまりここでもde Witは、ラ=エイ=サントの陥落時刻同様、通説に従い異論を排している。
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