ラ=エイ=サントの陥落時刻

 以前、こちら"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54687612.html"で紹介したPierre de WitのThe campaign of 1815"http://www.waterloo-campaign.nl/"には、デルロン軍団の彷徨以外にも色々な話が載っている。例えばワーテルローの戦いにおけるラ=エイ=サント農場の陥落時間を巡る問題"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/lahayesainte.html"。一般に午後6時過ぎとされる陥落時間だが、午後4時説もある。どちらが正しいのか。
 一番重要なのはバリングの史料だろう。彼が記し、1831年にハノーファーの雑誌Hannoversches militairisches Journalに掲載されたErzählung der Theilnahme etc.("http://books.google.co.jp/books?id=f9anfLGWs6IC" p69-90)という記事が、ラ=エイ=サントを巡る争いの基本的なソースになっている。de Witもここから多くの引用をしている。
 バリングの史料ではフランス軍によるラ=エイ=サントへの攻撃は4回行われたことになっている。だがその記述を全面的に信じた場合、最後の攻撃が行われてラ=エイ=サントが陥落した時間は、通説である午後6時過ぎよりかなり遅い時間になってしまうことは既に指摘している(私の計算では午後8時以降になるが、de Witは午後7時から8時の間としている)。そういう問題を抱えるバリングの記録は、果たしてどこまで信用できるのか。
 
 de Witはラ=エイ=サント陥落時刻について、様々なソースにどう書かれているかをまとめている("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/second.2.pdf" p9)。そこにはバリングの午後7時~8時説から、ウェリントンの午後2時説(1815年8月17日付の手紙"http://books.google.co.jp/books?id=fHA-AAAAYAAJ" p229)、エイメの午後6時~7時説("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k733390." p25-26)、デルロンの午後3時説("http://books.google.co.jp/books?id=Tvc5AAAAcAAJ" p97)、ナポレオン自身の回想録にある第1軍団の攻撃開始から3時間後、即ち午後5時前後説("http://books.google.co.jp/books?id=O0xSAAAAcAAJ" p86)、グールゴーの午後4時前説("http://books.google.co.jp/books?id=NbElllEfqxwC" p93)、ケンプト少将による午後遅く説、リーチ大尉の午後3時少し過ぎ説、バートラム中尉の午後5時説が紹介されている。
 最終的にde Witは午後6時前後にラ=エイ=サントが落ちたと判断している("http://www.waterloo-campaign.nl/bestanden/files/june18/second.2.pdf" p1)。バリングの記している内容のうち、時間経過については信用していないが「4回の攻撃を受けた」点は正しいと見ているのがその理由。というのもバリング以外にも1815年6月23日にブッシェ中佐がケンブリッジ公に宛てて書いた報告書の中に、やはりフランス軍が農場に全部で4回攻撃をしかけたことが記されているからだそうだ(p9)。確かに4回攻撃を受けたことが事実なら、最初の攻撃から1時間半後には陥落していた計算になる午後4時説より、もっと遅い午後6時説の方が説得力がある。
 残念ながらブッシュの報告を見つけられなかったため、de Witの指摘がどこまで妥当なのかは判断できない。またde Witはラ=エイ=サントを巡る戦闘についてしばしばリンダウのEin Waterlookämpfer"http://books.google.co.jp/books?id=TvWhPAAACAAJ"を参照している(p9-10)。これまた中身を確認することができず、その妥当性については判断しかねる。
 ただ3回目の戦闘において増援を要求されたナッサウ兵を送り出した側の史料は、最近まとめられた本"http://books.google.co.jp/books?id=riDOAwAAQBAJ"の中に掲載されていた。そこに掲載されているナッサウ第1連隊の報告によると、午後4時頃に第2大隊の側面中隊がラ=エイ=サントに増援として派出されたという。前進中に同中隊の指揮官が戦死してしまったものの、彼らはKGLと一緒に敵を追い払ったという(p175)。つまりフランス軍による3度目の攻撃で農場が落ちなかったことが言及されている。
 
 ワーテルロー関連史料には、かなり後になってSiborneが集めた手紙に基づくものが多いため、詳細を詰めようとするとどうしても史料の新しさという問題が立ちはだかってくる。それでもこのナッサウ第1連隊の報告書やブッシュによる報告など、古い史料において比較的遅い時間の陥落を思わせる記述が存在している点に、de Witの判断は由来しているのだろう。古いだけならたとえば大陸軍公報"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_nap.html"などは最初の攻撃でラ=エイ=サントが落ちたと主張しているが、全体像を見ていたナポレオンよりラ=エイ=サント周辺のみを見ていたブッシュやナッサウ第1連隊の方が正しいと見たのではないか。
 いずれにせよこの点についてde Witの説は通説とほぼ一緒である。前に紹介したデルロン軍団の彷徨に関するかなりアグレッシブな主張と比べると地味と言っていいくらい。別に素っ頓狂な主張をすることで注目を集めようとしているわけではないことが窺える。
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