メルナーの一族

 今月号のナポレオン漫画。巻頭カラーの時は表紙と合わせてトラップをしかけるのはもうお約束というか義務なんだろう。で、グロいシーンの後にはエロいシーンも入れ、分かりやすい不謹慎さを追求するあたりはこの漫画らしい、というか昔ながらの漫画ってこうだよな。一方でストーリーは加速続き。ダヴーのベルリン入城すら描かれないままポーランドに突入だ。
 
 さて史実との比較だが、まず大陸封鎖令(ベルリン勅令)はCorrespondance de Napoléon Ier, Tome Treizième."http://books.google.co.jp/books?id=UK3SAAAAMAAJ"のp555-557を参照のこと。後のナポレオンの運命に極めて大きな影響を与えた政策だし、世界史の教科書でもほぼ確実に出てくる重要テーマだが、漫画にすると地味だな。
 次はエロ担当のマリア・ヴァレフスカについて。彼女とナポレオンの出会いについて言及している最も有名な事例は、おそらくMémoires de Madame de Rémusat, I"http://books.google.co.jp/books?id=88OE5FWPolsC"だろう(英訳はこちら"http://books.google.co.jp/books?id=bQdBAQAAMAAJ")。それによると彼女をナポレオンの下に連れてきたのはミュラということになる(p121)。だが彼女がナポレオンのいるところへ来た時、彼はまだ仕事をしていた。彼女はしばらく待たされる。
 ようやく仕事を終えて現れたナポレオンだが、彼はすぐにポーランドの政治情勢、ワルシャワにいるポーランド大貴族に関する詳細な情報について聞いてきたという(p122)。閨のために呼ばれた若い女性を相手にする会話ではないといえばそれまでだが、貴族社会に所属しているメンバーの1人から忌憚のない意見を聞きたかったのかもしれない。とにかく、漫画よりはるかに色気のないシーンから始まったというのがこの回想録に書かれている話だ。
 ナポレオンがポーランドに到着した直後に彼女を愛人にしたであろうことは、タレイランの回想録、Mémoires du prince de Talleyrand, I"http://books.google.co.jp/books?id=aywMAAAAYAAJ"からも窺える。「彼[ナポレオン]はまた美しいポーランド女性、アナスタース・ワレフスカ夫人の足元に公然とその栄光を捧げ、そして彼が宿営地全てを訪れるために向かったオステローデとフィンケンシュタインに、彼女もついていった」(p312)と、タレイランは記している。
 コシチューシコの蜂起に協力し、その後はフランスに亡命していたミハウ・オギンスキ"http://pl.wikipedia.org/wiki/Micha%C5%82_Kleofas_Ogi%C5%84ski"の記した回想録"http://books.google.co.jp/books?id=3cxTAAAAcAAJ"にもワレフスカの名は出てくる。彼とデュロックがポーランドのことについて議論したとの説明を受けたマリア・ワレフスカは、デュロックを経由してポーランドの正確な情勢がナポレオンに伝わるであろうことを喜び、「ナポレオンがポーランド人を大いに愛しており、さらに大事に思うようになるだろうと付け加えた」(p384)そうだ。彼女がポーランドの愛国者と言われることが多いのは、こういう話が背景にあるためかもしれない。
 
 もう一つ、ベルナドットとスウェーデンとの関わりについても言及しておこう。1806年戦役においてスウェーデン軍が捕虜となり、その際にベルナドットが彼らを丁重に扱ったことが1810年にスウェーデン皇太子へと選ばれる大きなきっかけになった、と言う話だ。
 Bernadotte and Napoleon, 1763-1810"https://archive.org/details/bernadottenapole00bartuoft"によるとリューベック奪取の際にスウェーデン軍1600人が捕虜となった。彼らの大半はエステルイェートランド地方(Östergötland)出身で、指揮官は伯爵メルナー大佐。ベルナドットは自らの宿舎をこの大佐に提供し、大佐はその事実を政府に伝えたうえにベルナドットが「ノルウェーはデンマークでなくスウェーデンに併合するのがふさわしい」と話したことも言及したという(p169)。
 この話はどこまで事実なのだろうか。まずは指揮官であるメルナーから調べてみる。英語wikipediaに載っているリューベックの戦い"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_L%C3%BCbeck"には、スウェーデン軍の指揮官であるCarl Carlsson Mörner"http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_Carlsson_M%C3%B6rner"が捕虜になったと書かれている。だがこちらのサイト"http://sok.riksarkivet.se/SBL/Presentation.aspx?id=8706"を見ると、彼がポンメルン遠征部隊の指揮を取ったことは記されているものの、捕虜になったという記述はない。
 同じリューベックの戦いについて記しているスウェーデン語wikipedia"http://sv.wikipedia.org/wiki/Slaget_vid_L%C3%BCbeck"には、捕虜となった指揮官の名は書かれていない。Biographiskt Lexicon, Nionde Bandet."http://books.google.co.jp/books?id=_a4DAAAAYAAJ"にあるCarl Carlsson Mörnerの伝記を見ても、やはりポンメルン遠征の指揮を取った話は載っているが捕虜になった話はなく、1807年2月に友人に記した手紙の内容が記されているだけだ(p236)。
 英語wikipediaしかソースがない状態で信じるのは無理がある。もしかしたら他にメルナーがいるのかもしれないと思って探したところ、見つけたのがGustaf Fredrik Mörner"http://sv.wikipedia.org/wiki/Gustaf_Fredrik_M%C3%B6rner"だ。スウェーデン語wikipediaを見ると、そこには「彼は1805年にドイツで指揮を取り、翌年そこでフランス軍によって捕虜となり、1809年の革命後にスウェーデンへと戻った」と書かれている。
 他にもスウェーデン語サイトには同じ内容を記しているものがある。一例がこちら"http://sok.riksarkivet.se/sbl/Presentation.aspx?id=8720"で、そこにはもう少し詳しい経緯が書かれている。それによると彼はリューベックへと行軍しそこから船でシュトラールズントへ向かう予定だったが、11月7日にベルナドット元帥率いるフランス軍によって捕らわれたとある。Biographiskt Lexiconを見ても、Gustaf Fredrik Mörnerの項目に彼が「フランス元帥」の捕虜になり、それが5年近く後にベルナドットが玉座に就くきっかけになったと書かれている(p274)。
 捕虜になったの部隊の指揮官がCarl CarlssonではなくGustaf Fredrikであることはほぼ確かだろう。Carl Carlssonはあくまでスウェーデン軍全体の指揮官であり、捕虜になったのはその一部、具体的には近衛擲弾兵7個中隊、スモーランド竜騎兵2個大隊、及び騎馬砲兵6門である、と記している同時代のドイツ語新聞がある。Kaiserlich und Kurpfalzbairisch privilegirte allgemeine Zeitung"http://books.google.co.jp/books?id=7cBDAAAAcAAJ"がそれだ。
 11月20日付の紙面にはノイシュタット発の8日付のニュースとして、リューベックから逃げようとして捕まった部隊の内訳を以上のように記しているのだが、その指揮官として「旅団長のメルナー伯」という文字も記されている(p1295)。ここで言うノイシュタットとはおそらくノイシュタット=イン=ホルシュタイン"http://de.wikipedia.org/wiki/Neustadt_in_Holstein"のことだろう。
 12月4日付の紙面には、スウェーデンのマルメ"http://sv.wikipedia.org/wiki/Malm%C3%B6"発の11月17日付のニュースとして、もっと詳しい話が紹介されている。
 
「旅団長と大佐たちの1人であるグスタフ・メルナー伯は本日、出帆するべくトラーフェミュンデ"http://en.wikipedia.org/wiki/Travem%C3%BCnde"へ向かおうと試みたが無駄に終わり、国王近衛擲弾兵連隊の大半が6日にトラーフェ河畔でフランス兵の捕虜になったことを、陛下に知らせてきた。(中略)この時にはプロイセン軍とフランス軍の両方から撃たれ、以下の者が死傷した。死亡が大隊牧師ドゥセ、楽隊指揮者ヘルムベルク、楽隊と兵卒20人。負傷はポスト及びフォルタイ准尉が背中に、あと楽隊と兵卒26人、水兵3人、召使2人。合計して死傷者は55人」
p1352
 
 こちらにははっきりGustaf Mörnerと書かれているので、やはりCarl CarlssonではなくGustaf Fredrikが捕虜になったと見るべきだろう。そして1810年にベルナドットをスウェーデン皇太子とするべく行動したのがCarl Otto Mörner"http://sok.riksarkivet.se/SBL/Presentation.aspx?id=8738"。GustafやCarl Carlssonとの間柄は正直よく分からないが、メルナー一族との友好関係がベルナドットに将来の国王の地位をもたらした可能性はありそうだ。
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