「ナチス式敬礼」はハリウッド製

 見出しはちょっと「釣り」が入っている。正確に言うなら「ローマ式敬礼」は古代ローマとは無関係で、19世紀から20世紀にかけて作り出され、映画を通じて広められた近代の産物にすぎない、という指摘だ。WinklerのThe Roman Salute: Cinema, History, Ideology"http://books.google.co.jp/books?id=guoMAQAAMAAJ"が詳細に説明しており、こちらのファイル"https://ohiostatepress.org/Books/Book%20PDFs/Winkler%20Roman.pdf"で序文と結論などを読むことが可能。こちらの書評"http://bmcr.brynmawr.edu/2009/2009-08-45.html"を見れば中身の要点も分かる。
 ローマ式敬礼(il saluto romano)はイタリアのファシスト党が採用し、後にドイツのナチスもまねをした敬礼の方式で、Winklerによれば「右腕を正面に堅く伸ばし、体の垂直軸からおよそ135度に上げ、手のひらを下に向け指を接する」(p2)もの。まあいちいち説明しなくても大体分かるだろう。「ナチス式敬礼」の日本語wikipedia"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E5%BC%8F%E6%95%AC%E7%A4%BC"には「ローマ帝国のローマ式敬礼を、ベニート・ムッソリーニがファシスト党やイタリア軍で復活させたものを、ナチスが更にドイツで採用した」と説明している。一般的にはこのように認識している人は多いだろう。
 だがそうではない、とWinklerは主張する。彼はまず古代ギリシャローマ時代の考古学的、文献的資料に当たり、その中から右腕を掲げている事例を探して詳しく調査しているようだ(英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_salute"のEarly Roman sources and images参照)。右腕を掲げるのは、多くの場合敬礼ではなく誓約が目的であり、なおかつ腕の形状も真っすぐ伸ばしていなかったり、手のひらが下ではなく横を向いていたり、指を開いたり曲げたりしている。いわゆる「ローマ式敬礼」に相当するジェスチャーは、古代には存在しなかったというのがWinklerの結論だ。
 では「ローマ式敬礼」はいつから始まったのか。Winklerが紹介しているのは「ナポレオンの戴冠式」などで有名なダヴィッドの描いた「ホラティウス兄弟の誓い」"http://en.wikipedia.org/wiki/The_Oath_of_the_Horatii"だ。ここでは兄弟たちが剣に向かって腕(左腕もあるようだが)を真っすぐ伸ばし、手のひらを下に向けて指を接している。腕の角度は斜め45度上よりは低いものの、「ローマ式敬礼」に近いものがこの時には生まれていた格好であり、かつこの絵画は国家への忠誠を示すシンボルとしても使われるなど、そのプロパガンダ的側面からも20世紀の「ローマ式敬礼」のはしりになったようだ。
 19世紀には、今度は米国でこの方式の敬礼が広まる。社会主義者であったフランシス・ベラミーが、国家への「忠誠の誓い」を作成した際に、このジェスチャーを導入したそうだ("http://rexcurry.net/pledge2.html"参照)。そしてこの動作は、まずローマ時代を描いた舞台演劇に使われる。といっても演劇の原作や台本にこのような動作が書かれていた訳ではなく、あくまで舞台上で映える動作として採用されていたそうだ。さらに初期のサイレント映画にもこうした「ローマ式敬礼」が導入されていった。1907年の映画ベン・ハー、1913年のイタリア映画スパルタコなどがその例。かくして映画が人気を集めるに従い、「ローマ式敬礼」も広まっていった。
 舞台や映画で使われたこのジェスチャーをファシスト党と結びつけた人物として、Winklerはガブリエーレ・ダヌンツィオの名をあげる。彼は1914年の映画「カビリア」の脚本を担当し、その中でこの敬礼を何度も使った。そして第1次大戦後、彼はフィウメのイタリア併合を要求して武装集団を率いこの町を占拠するという事件を起こした。その際に彼がバルコニーでの演説などと一緒に採用したのが「ローマ式敬礼」。ダヌンツィオはファシスト党にも影響を及ぼしたと言われており、彼を経由してムッソリーニとファシストたちにも「ローマ式敬礼」が伝わったという。
 かくして、最初は絵画の世界に、次に舞台映えのために導入された所作が、いつの間にか「古代ローマで行われていた敬礼」との位置づけでファシストたちに使われるようになった。さらにドイツのナチスがこの敬礼を採用。右腕をあげる動作が「ローマ式敬礼」であるとの認識は世界中に広まり、それが本当に古代ローマから伝わるものだと信じる人も増えた。戦後も古代ローマを舞台にした映画の中ではしばしばこの動作が使われ、スタートレックで使われたこともあるとか。結果として、現在に至ってもあれが古代ローマに由来すると見なしている人がまだ大勢残っている。
 
 Winklerの主張が正しいかどうかはきちんと検証する必要があるだろう。ただローマ時代に軍事的な意味の敬礼があったかどうかをはっきり示す証拠はないそうだ。そういうものが見つかればともかく、存在しないのであればWinklerの主張にも耳を傾ける必要はある。同時に映画という手段を使い視覚に訴えることが、どれだけ人間に強い印象を及ぼすかという問題を調べるうえで、この指摘は興味深い。現代人は映画館どころか自宅でも、いや外出中だって動画に触れることのできる生活を送っている。それだけに動画のインパクトによって間違った認識を持つことになる可能性を、もっと深く自覚しておいた方がいいのかもしれない。
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