ソースに当たること

 いくつか雑談を。ジョニーが凱旋する時"http://www.youtube.com/watch?v=4tIsXLyZcWI"という有名な歌がある。南北戦争の最中、1863年にパトリック・ギルモアが作曲した曲であり、そのメロディーは今に至るまで様々な作品で使用されている(博士の異常な愛情"http://www.youtube.com/watch?v=snTaSJk0n_Y"とか)。
 日本語wikipedia"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%81%8C%E5%87%B1%E6%97%8B%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%8D"にはこの曲について「ギルモアがアイルランドの古い反戦歌『あのジョニーはもういない』(Johnny I Hardly Knew Ye)のメロディーに新しい歌詞をつけたものとされている」と紹介している。Johnny I Hardly Knew Yeについてはこちら"http://ceron.jp/url/www.nicovideo.jp/watch/sm21438892"を参照。
 この説は別に日本オリジナルではなく、例えばSongs and Stories of the Civil War"http://books.google.co.jp/books?id=mlruH2TWNqAC"では、Johnny I Hardly Knew Yeについて「歌詞の中にセイロン島という言葉があり、英国兵がセイロンに送られたのは18世紀末から19世紀半ばにかけてだった」という理由で、Johnny I Hardly Knew Yeが先にあり、ジョニーが凱旋する時は後からそのメロディーを借りて作られたものだとしている(p61-63)。
 だがこの説は実は間違いだそうだ。2012年に出版されたJonathan Lighterの本"http://www.amazon.com/dp/1935243896"がそれを調べて立証した。実は「ジョニーが凱旋する時」の方が先に作られ、Johnny I Hardly Knew Yeはその後に制作されたのである。
 Lighterの主張については英語wikipedia("http://en.wikipedia.org/wiki/When_Johnny_Comes_Marching_Home"と"http://en.wikipedia.org/wiki/Johnny_I_Hardly_Knew_Ye")や、こちらの本"http://books.google.co.jp/books?id=y3mLAgAAQBAJ"のp394を読めば分かる。ギルモアの曲が1863年に出版されたのに対し、GeogheganがJohnny I Hardly Knew Yeを出版したのは1867年。しかも後者は当初、違うメロディーで歌われていたのだという。もともと喜劇役者が歌っていたこの曲が反戦曲と扱われるようになったのは第一次大戦から。1950年代からはアイルランド共和国が反英国のプロパガンダとして使うようになった。そしてその過程でこの曲をギルモアのメロディーで歌うのが広まった。
 ギルモアの方が先であるだけでなく、Johnny I Hardly Knew Yeは「ジョニーが凱旋する時」にインスパイアされて作られた可能性があるそうだ。1864年に出版されたNew and Popular Songs"http://digital.library.pitt.edu/cgi-bin/t/text/text-idx?c=ulstext;view=toc;idno=31735061821314"にはジョニーが凱旋する時の歌詞が載っているのだが、オリジナルに付け加えられた歌詞として以下のようなものがある。
 
Johnny he got shot in the leg,
 Hurrah! hurrah!
Now he goes on a wooden peg,
 Hurrah! hurrah!
He lost his eyes, he lost his nose,
He bit off his ears, and lost all his toes,
 
 Johnny I Hardly Knew Yeで使われるYe haven't an arm, ye haven't a leg, Ye're an armless, boneless, chickenless eggという歌詞は、確かにこのあたりからヒントをもらったと考えてもおかしくはない。
 それにJohnny I Hardly Knew Yeが19世紀には反戦歌として認識されていなかったことは、1874年に出版された雑誌"http://books.google.co.jp/books?id=htMhAQAAMAAJ"の記事からも裏付けられる。そこではダブリンの有力者の息子を描いた風刺画に"Johnny, I hardly knew you!"というフレーズが添えられることで「より面白くなっている」としたうえで、このフレーズについて以下のように説明している。
 
「[このフレーズは]低俗な歌から引用したもので、そこでは『ジョニー』と呼ばれる兵士が妻子から逃げ出したこと非難され、彼本来の温和な外見に似合わない軍服を着た姿の奇妙さをからかわれている」
p783
 
 Johnny I Hardly Knew Yeが反戦歌などではなく、妻子を捨てて「一目散に逃げる」"skedaddle"ような無責任な若い男を茶化した曲と見なされていたことがはっきりと言及されている。「ジョニーが凱旋する時」が作曲された10年以上後にそう書かれているのだから、「反戦歌の歌詞を変えた」というギルモアへの批判は全く妥当でないことになろう。
 
 次に「孫子の言葉」として時折紹介される「兵は拙速を貴ぶ」だとか「巧遅は拙速に如かず」について。こちらも史料に当たれば違うことはすぐ分かる。孫子が実際に言っているのは「故兵聞拙速。未睹巧之久也」"http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/SunTzu/WagingWar.html"。中身についてはこちら"http://hirosasaki36.blog.fc2.com/blog-entry-67.html"を参照してほしいが、拙くてもいいから速く行動しろという意味ではないとの主張があることは踏まえた方がいい。
 「巧遅は拙速に如かず」というのはこちら"http://akuseku-access.doa-design.biz/index.php?Kouchi-Sessoku"によれば南宋時代に書かれた科挙に関連する本の中にある文章で、「(試験時間は限られているのだから)巧妙な詩文を作ろうと時間をかけることは、拙劣なものであっても迅速にできることにはおよばない」という意味らしい。戦争とは全然関係ない文脈で出てくる文章だから、これを孫子と結びつけるのは無茶だろう。
 そしてもう一つの「兵は拙速を貴ぶ」、実は日本の文献がソースだ。続日本紀の延暦8年5月にある「夫兵貴拙速。未聞巧遅」"http://www.j-texts.com/jodai/shoku40.html"という文章が元。蝦夷攻撃のため集めた軍がいつまでも前進しないのに苛立った天皇が、早く攻撃しろと命じる過程で使われた言葉である。やはり孫子とは関係ない。
 そして天皇からせかされた軍勢による蝦夷攻撃は、散々な失敗におわった。4000人の軍勢がアテルイ率いる半分以下の蝦夷に前後から襲われ、多大な損害を出して敗走したのである。戦死25人に対して逃げる途中に川で溺れた数が1000人以上とあるから、ほとんどの兵は敵の姿すら見ずに逃げ出したんじゃなかろうか。こちらのblog"http://kyousen.tea-nifty.com/note/2007/03/post_75b6.html"では「『拙速』を尊んじゃった実例」と皮肉交じりに紹介している。
 
 どちらの曲が古いか知らないまま「反戦歌を軍歌に変えるのはいかがなものか」と言ったり、元の言葉を確認せずに「拙速は巧遅に勝るんだから早くやれ」というのは、事実を知っている人間から見ると自ら恥をさらす行為に見えてしまうことが分かる。生半可な知識に基づいて決め付けるのはヤバいという意味で、まさに他山の石とすべきだろう。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック