フランス軍側の話ばかり書いたので、多少はプロイセン側についても言及しておこう。漫画ではブラウンシュヴァイクの負傷後に「次の指揮官は……」「いません、死にました」という台詞が入っているが、これは史実ではない。史実では一応、ブラウンシュヴァイクの後を継いだ人物はいた。プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世"
http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_William_III_of_Prussia"その人である。
……と、少なくともHöpfnerは主張している。彼によればオラニエ師団がアウエルシュテットを通過し、後送される負傷したブラウンシュヴァイク公を目撃した「直後、国王が訪れ、師団がもっと近くに移動していないことに対する多大な怒りを表明し、戦闘中の兵の左翼を全大隊で強化するよう命じた」(Der Krieg von 1806 und 1807, Erster Theil. Erster Band."
http://books.google.co.jp/books?id=ZAcKAAAAIAAJ" p453)。またその後になって「国王からの2つ目の命令が来た。ヴァルテンスレーベン師団がハッセンハウゼン右側をもっと長期間保持できるよう、戦っている兵の両翼を強化せよ」(p454)とも書かれている。
というか、建前的には国王自身が総司令官だったのかもしれない。実質的な指揮を取っていたのがブラウンシュヴァイクだったとしても、建前上の司令官が残っているのなら指揮権委譲の問題を議論するのは難しかったとも考えられる。とにかく国王が司令官的な仕事をしようとしていた、というのがHöpfnerの見方だ。
だが国王が命令を出していたとしても「プロシア軍の指揮系統は崩壊」していたことを否定する材料にはならないようだ。Höpfnerは「今やあらゆる全般的な指揮が存在しなくなった。もちろん国王が指揮を取ったのだが、メレンドルフ元帥、各指揮官、両翼の補佐、幕僚士官たちもまた配置を行い、それは特に騎兵の使用において致命的だった。彼らはあらゆる場所で助けを求められ、大隊単位で現れ使われたためこの兵科のまとまった部隊がなくなり、その優位にもかかわらず意味のある効果を決して得られなくなってしまった」(p450-451)としている。ブリュッヒャーの騎兵部隊が、緒戦において色々活動していたにもかかわらず途中から戦闘経過において語られなくなったのは、そういった理由があったからかもしれない。
Höpfnerとは逆のことを書いている人もいる。Maudeによればブラウンシュヴァイクの負傷により「彼の幕僚は散り散りとなり、公の機能を行使するための配置ができる唯一の人物である国王にその情報が伝えられなかった」(The Jena Campaign, 1806"
https://archive.org/details/jenacampaign180600maud" p168)という。おまけにようやくそのニュースが届いた時、国王は後継者を指名しなかったのみならず、自ら指揮を取ることもなかった(同)というのがMaudeの主張だ。
残念ながらMaudeが論拠を示していないため、どちらが正しいかの判断は難しい。取りあえず割と詳細な話を書いているHöpfnerの方がもっともらしいように思われるが、最終判断はもっとはっきりとした史料があるかどうかを見てから下すべきだろう。
「10月13日
恐ろしい日。軍が敵に向かって前進するため宿営地を出発するとのニュースが伝わった。王妃、フィエレック嬢、タウエンツィーン夫人、それと私はアウエルシュテットへの道を出発した。突然ブラウンシュヴァイク公から、私たちが向かっている方角で翌日に会戦が予想されるから引き返すようにとの伝言があった。私たちはヴァイマールに戻り、そこにリュッヘル将軍が自ら来て私たちがどちらへ行くべきかについて話した。
10月14日
午前5時、私たちは軍と私たち自身の運命に関する甚だしい恐怖と懸念を感じながら、再びヴァイマールを出発した! ――ベイロツ、ヤーゴウ中尉、それと60人の兵が私たちをランゲンザルツァまでエスコートした。エルフルトではしばしハウクヴィッツとルチェシーニに再会した。夕刻、私たちはハイリゲンシュタットに来た(後略)」
p251
見ての通り、王妃らは軍がアウエルシュテットに向かっていた13日にヴァイマールへ引き返し、会戦当日にはそこから西方、エルフルト、ランゲンザルツァを経てハイリゲンシュタットまで移動している。現在の地図で見ても移動距離は100キロメートル以上に達しており、戦場からははるか彼方まで立ち去っていたことが分かる。さらに王妃は翌15日には北方へ向きを変えてブラウンシュヴァイクに到着し、16日にはエルベ河畔のタンガーミュンデへ、17日にはベルリンへと戻っていた(p252)。
王妃が13日時点で主力軍を離れヴァイマールにいたことはリュッヘルの記録からも裏付けられる。1806. Das preussische offizierkorps und die untersuchung der kriegsereignisse"
https://archive.org/details/daspreussischeo00iigoog"に載っているリュッヘルの記録によれば、彼は13日に王妃が連れとともにヴァイマールに到着したことを知らされたという。彼は王妃に対して危険が増しているのですぐに出発するよう要請。そのうえで彼女のために「ミュールハウゼン、ゼーセン街道、ブラウンシュヴァイク及びマグデブルクを経てベルリンへ」向かうルートを定めたという(p143)。結果的に王妃はマグデブルクではなくタンガーミュンデを通ったが、あとはほぼリュッヘルに言われた通りに移動したようだ。
それだけではなく、リュッヘルは翌朝になっても王妃のための馬匹がないことを知り、その調達に奔走している。つまりイエナ会戦の当日まで王妃脱出を助ける仕事に追われていたわけで、早朝から始まっていた戦いへの対応がそれだけ遅れていた可能性がありそうだ。リュッヘルは、彼女が自分の忠告を即座に理解したことに対し、「賢者には一言で充分である」(p144)と褒めているが、そもそも彼女がこんな場所まで出張ってこなければ慌てて逃げる必要すらなかったこと、そのために予備部隊を指揮している人物が余計な時間を食われたことについては触れていない。宮仕えはつらいね。
コメント
No title
(「偉大なる大伯父」から見れば、まさに苦々しかったかもですが。)
『エロイカ』との重複を避けるためか、今回は「屈辱の和平交渉」の場面は無かったですが、王妃にとって一番の無念は、やはりナポレオンの没落を見ることなく、先に死んでしまった事かもですね。
2014/09/15 URL 編集
No title
2014/09/17 URL 編集