ジョミニ著作書評1

 略伝に引き続き、Halleckが紹介しているジョミニの著作批評を和訳してみる。
 

彼の著作に関する批評
 上述のジョミニの生涯に関する素描に、彼の出版物に関する短い批評も加えておこう。
 軍事技術に関する主要な著作を学び、かれらの見解をフリードリヒ及びナポレオンの戦役によって発展した見方と比較したジョミニは、軍事作戦の根底にあるように見える原則について科学的分析を行い、その成果を1803年に「大戦術論」と題した予備的作品にまとめ、その中で豊富な図版と伴にフリードリヒ及びフランス革命戦役から得た彼の見解を説明した。後に彼はこの著作は失敗であると判断し、落胆して草稿を燃やした。彼の見解を表明する新しい取り組みを行った彼は「大軍事作戦論」を書き上げ、その最初の2巻は1804年に出版された。フランス革命戦争を含む第5巻は、最近の作戦についての詳説によって読者の関心をかき立てるため第3巻及び第4巻より前の1806年に出版された。他の巻は1810年に出揃った。第2版はパリで1811年から1816年の間に全8巻で出版。第3版は1818年に全3巻で登場したが、著者は最初の6つの革命戦役を準備中だった「革命戦争史」に盛り込むため削除した。この作品の第4版は1857年、地図を含め全3巻で出版された。
 これは、異なる時代の偉大な軍事指導者たちの戦役から描き出した数多くの図版を含み、主な軍事技術の原則を具体化したものとして、軍事評論家から彼の全作品の中で最も重要だと見なされた。後の軍事著作家は全てこの作品に示された偉大な才能を証明している。
 1811年、ジョミニは全15巻、図版39枚を含む地図4帖に及ぶ「革命戦争の批評及び軍事史」の出版を始めた。これは多大な労力を費やした作品で、いくつかの点でその出版後に世に出た同時代の多くの歴史書の基礎となった。戦役と会戦の分析、計画及び軍事作戦に関する批判的な議論は、軍事に関心を持つ読者に重要な価値を提供してくれる。その正確は文学的あるいは歴史的というよりは科学的であり、そこで示されている偉大な才能にもかかわらず、一般の読者には人気がない。記述ははっきりしており表現方法は明快だが、些細な細部に関する科学的議論はその作品を歴史書としてはいくらか退屈なものにしている。出版は1824年まで完成しなかった。
 1827年、ジョミニはナポレオンの生涯を「ナポレオンの政治及び軍事的生涯、カエサル、アレクサンドロス及びフリードリヒの法廷で自ら語ったもの」という題名の全4巻、36枚の図版入り地図を出版した。匿名で出版されたものの、その作品の軍事的性格ははっきりと著者を示していた。ジョミニは元々、彼の革命史の続編としてより完全な帝国の戦史を書き上げるつもりだったという。いくつかの理由で彼はそれを断念した。まず第一に、かつてのフランス軍士官でありロシア皇帝の副官であるという彼の立場が、ナポレオンの政治的及び軍事的行動に対する公の批評家として姿を現すことをきまり悪いものにした。少なくともこれらの批判は、好意的か否定的かを問わず、彼を論争に巻き込んだと思われる。第二に、全ての詳細なナポレオン戦争の歴史に必要な公的文書を彼は利用できなかった。匿名での出版は個人的論争を回避できると同時に、これらの偉大な政治的事件についてより自由に討論することが可能だった。
 他のジョミニの著作は、1830年出版の「分析的描写」、1837年出版の「戦争技術要約」、そして1856年出版の「戦闘における兵の隊形」論がある。有益な脚注を含む彼の翻訳である、ロイドとテンペルホフの「七年戦争史」、カール大公の「戦略言論」は、軍事読者の間の定番作品だ。これらの著作に加え、ジョミニは論争となっている主題について多数のパンフレットを出版し、同時代人の軍事書及び史書についての論評も出している。これら小規模な出版物全てにおいて彼は多大な軍事知識と正確な軍事的批判を披露している。
 軍事史家としては、少なくとも彼に先行する著者の中にジョミニに匹敵する者はいない。彼に続く者たちの中で最良の者は、彼を自らの模範かつ原型であることを認めるのに躊躇しない。
 カエサルの解説は、戦争技術がまだ揺籃期であり、今では優れた将軍と振り返られている者たちの間でも戦略についてごく僅かにしか理解されていなかったため、大した軍事的価値はない。軍事作戦においては、他の全てと同様に、最も入念な科学的議論の後に決められた作戦計画と同じものを強い常識が指摘する。天才が生み出し提案したものを、科学が評価し認めるのだ。
 古い軍事史家たち、ヨセフス、ヘロドトス、トゥキュディデス、ボリュビオス、サリュスト、リヴィ、タキトゥス、プルターク、アリアン、マキャヴェリ、モンリュック、ブラントーム、ローアン、モンテクッコリ、グスタフ=アドルフ、テュレンヌ、コンデ、フキエール、サンタ=クルーズ、ピュセギュール、そしてフリードリヒは、相争う両軍のいくつかの動きにおける戦略との関連について理解も指摘しようともせずに戦争の出来事を描写していた。ギベール、メニール=デュラン、ロイド、テンペルホーフ、ワーナリー、ラ=ロシュ=エモン、ビューロー、及びデュマですら、戦略的組み合わせよりも戦術的な動きとの関係で、自ら描き出した軍事作戦について議論していた。
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