ジョミニ略伝2

 ジョミニ略伝の続きに入る前にサッカーW杯でこんなもの"https://twitter.com/byKepler/status/486853038288957441/photo/1"を発見。こういうの"https://twitter.com/nyabero/status/486820008656642048/photo/1"もあったし、コラ画像職人は世界中にいるようだ。閑話休題。
 

 フランスの軍務からジョミニが脱走したことは多くの批評と議論を巻き起こした。彼の友人たちはこの行動を完全に正当なものとして擁護した。彼らは、何よりフランス人でなくフランスの臣下でもない彼はフランスへの愛国心について何らの義務も負っていなかった、と話した。彼は単なる傭兵であり、軍務を提供すれば受け入れられ、その責務は両者が合意している間のみ継続した。軍務そのものは強制的なものではなく、生涯続く約束でもない。この事例の本質からも、両者間にそうした性格[ジョミニがフランスへの軍務について義務を負っているということ]について暗黙の了解はあり得なかった。彼らはさらに、ジョミニ将軍が辞任を申し出て、フランス軍からの退役を求めた時点で彼の側のあらゆる義務は停止しており、したがって彼は徴用された外国人として最初の機会に軍を去る権利がある、とも述べた。皇帝が彼の辞任を拒否したため、彼はベルティエの酷い待遇によって自尊心の観点から脱走を強いられるまで自ら望んでいない家来としてとどまったのである。この時点での彼の出発とそのやり方は、あらゆる面から正当化されるもので、この事例のような特別な状況下では全く不可避だった。
 一方、彼の敵は、フランスの軍務にひとたび就いた以上、彼には政府の承認なしでそこから去る権利はなく、したがって承認が拒否されていた限り軍務を継続する任務に縛られていたと強く主張した。当時、その状況下で去ったことは、間違いなく軍事的な脱走の要件を満たす。何人かはさらに当時、彼を事実上の裏切り者として糾弾し、彼が重要な文書と口頭での情報を敵に伝えたと断言すらした。
 当時から長い時間を経て、双方の議論と証拠を完全に調べたところ、どちらか一方の言い分に完全に同意するのは簡単ではない。自発的に外国の軍務に就いた士官に、その意思に反して生涯その軍務にとどまるよう束縛することを適用するのは極めて理不尽である。逆に彼がいつでも好きな時に、例えば戦場で立ち去って敵の戦列に加わることができるというのも、同じように理不尽だ。もしジョミニがスペイン戦役後に辞任を求め、フランス軍での他の自発的な職務を全て断っていたなら、彼が最初の好都合な時に去っても誰も彼を非難できなかっただろう。だが、ナポレオンが彼の辞任受け入れを拒否した後、彼はその下で熱心に仕事を続けた。加えて彼はより高い地位への昇進と最も打ち解けた信頼とを受け取っていた。にもかかわらず、もしジョミニ将軍の1813年のような行動を正当化できるものがあるとしたら、それはバウツェンの戦いにおける勇敢で称賛に値する尽力に対してネイ元帥があれほど熱心に懇願した彼の昇進が拒絶されたこと、及びベルティエの不当な扱いと何より根拠のない問責に伴う逮捕及び裁判という不名誉である点は、認めなければならない。
 連合軍に加わるに際してジョミニの振る舞いはあらゆる点で名誉あるものであり、彼が難しい立場を完全に理解していたことを証明する。プロイセン国王からフランス兵の位置と数に関する質問を受けた時、彼は礼儀正しく回答を断った。その場に居合わせたロシア皇帝は彼の拒絶を正当だと見なし、離れたばかりの軍務に関する繊細な名誉感におおっぴらに同意した。
 ジョミニが連合軍に皇帝の計画を告げたという馬鹿げた非難は、ナポレオン自身がセント=ヘレナで口述した彼の自筆の回想録において永遠に解消された。この非難が繰り返されていた「ザクセン戦役の歴史」における書き込みで、彼はこう言っている。「この本の著者は戦役計画の秘密とネイ軍団の情勢を連合軍に伝えたことでジョミニ将軍を責めているが、それは間違いだ。その士官は皇帝の計画を知らなかった。各元帥に常に送られていた全体的な動きに関する命令は彼には伝えられず、したがって彼はそれがどんなものであるか知らなかった。皇帝はこの本で彼になすりつけられた罪で彼を糾弾したことは決してない。彼は他の者のようにその軍から脱走したのではない。彼は不満を訴えるに足る酷い不正を受け、名誉心に目がくらんだのだ。彼はフランス人ではなく、その心に国への愛はなかった」
 1813年戦役の残る期間、ジョミニ将軍は軍事作戦に関する彼の意見を通じてロシア皇帝に最も有益な貢献をなした。ライン河畔に到着した時、彼はフランス侵攻に反対し双方にとって名誉ある平和条約を結ぶよう助言した。だが高揚していたチュートン人たちはフランス征服と分割以外で満足しそうになかった。ジョミニはロシア皇帝と伴にフランスに入ったが、しつこく懇願することでスイスへ戻るのを許され、ロシアの影響を通じてオーストリアが意図していた征服と支配から生まれた国を救い出すのに大いに貢献した。
 連合軍によるパリ占領とルイ18世の復位後、ジョミニ将軍はロシア軍士官として、及び彼の出生州であるヴォーの代表者としての政治的軍事的立場でウィーンに赴いた。そこでの交渉において彼はオーストリア外交による強奪から彼の生まれた地の自由を守るため大いに腕を振るった。当時、ジョミニ及び他の何人かの著名なスイス人がロシア軍内と皇帝の助言者の中で高い地位を占め、自国を守るためその力と影響力を使ったのは、スイスにとって幸運だった。
 1815年、彼は皇帝アレクサンドルと伴にパリに戻り、そこでネイ元帥の処刑に熱心に反対したため、ロシア軍将軍のリストからその名を抹消するよう提案されたほどだった。この連合軍の行為は彼の性格と大義に対する永続する不名誉となった。そしてこの時、ジョミニが追求しようとした道は、彼の個人史の中で最も称賛に値する出来事となっている。
 講和後、ジョミニはロシア皇帝に同行し、司令官の地位に昇進した。これは軍の指揮を執ることができる立場で、ロシア軍では会戦に勝利した者以外は手に入れることのできない元帥の地位に次ぐものだった。従ってゴルチャコフ公は、クリミアの素晴らしい防衛という実績にもかかわらず、会戦で勝利することがなかったため元帥にはなれなかった。ジョミニは続いてセント=アンナ、セント=ヴラディミール、及びセント=アレクサンドル大勲章を受章。1818年にはエクス=ラ=シャペル会議で、1823年にはヴェローナ会議で皇帝を補佐。陸軍士官学校の設立委員会議長となり、後に帝国国境の要塞化と防衛の計画作成を委ねられた。ニコラスが玉座についた際には、新たな皇帝からの信頼の証を多数受け、侍従将軍に任命され、皇位継承者に対する軍事教育の指導を任せられた。ベレジナでの病気により酷く衰弱していた彼の健康はセント=ペテルスブルクの厳しい天候に耐えるにはあまりに弱く、彼は多くの時間をパリ及び欧州南部で過ごす許可をもらった。
 ジョミニには息子が2人、娘が3人いた。彼の長男はパシュケヴィッチ元帥の副官となり、後にペイエルヌに住むため軍務を離れた。次男はセント=ペテルスブルクで外務省の筆頭国家参事官となった。長女はロシアでオルロフ公の甥と、次女はフランスの工兵部隊佐官と、三女はロワールの事業主と結婚した。
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