以前、母成峠の話を書いた際に、地元の案内人についてはよく分からないとしていた"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54741850.html"。今回、これに関連する史料を見つけたので言及しておこう。載っていたのは「戊辰戦争会津東辺史料」"
http://books.google.co.jp/books?id=tDJMAQAAIAAJ"。そこに石筵村の名主が明治2年に書いた史料が収録されている。
石筵を経由しない西軍右翼部隊に関し、なぜ石筵の住民が案内した話が残されているのか、そこが分からなかったのだが、この名主である平十郎の記録によってその謎が氷解した。実は石筵村は「八月朔日、会兵に放火被致、五十三軒の村不残焼亡」(p433)していたのだ。平十郎は仕方なく「隣村玉ノ井村」へ避難し、続いて13日からは二本松にいた土佐藩兵とともに行動するようになったという。西軍が会津侵攻のため途上にある村の住民を事前に雇い入れていたことが分かる。
平十郎はそのまま8月20日の山入村での戦闘に加わり、21日には「寅の刻(午前四時)頃御出陣に相成、間道猿岩御教導仕」(同)った。猿岩(勝岩)とあるので、彼が西軍右翼部隊にいた谷干城らの土佐藩兵と行動をともにしたのは間違いないだろう。石筵の村人がなぜ石筵を通らなかった西軍右翼部隊を案内したのかは、以上のような理由があったからである。
同時に会津による石筵への放火が彼らの反感を招いたことも推察できる。実際、平十郎の活躍はかなりのもので、母成峠の戦いだけでなくその後も「若松表御闘戦中、銃丸飛行の中を潜り雨露を犯、飢渇を凌ぎ、実に不顧身命、日数五十余日、御用筋相勤、漸々十月三日帰宅」(同)と1ヶ月半にわたって兵とともに活動したことが記録されている。その貢献が認められたのか、後に金50両の報酬を手に入れている(p434)。
平十郎の記録でもう1つ面白いのは、彼が時間について色々と記している点だ。彼によれば西軍右翼部隊が戦闘を始めたのは「辰の中刻(午前八時)頃」(p433)。西軍側の記録によれば、戦闘開始は午前9時頃"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54758921.html"と1時間ずれているが、時計など一般的でない時代にこの程度のずれで済んでいるのならかなり一致していると見ていいだろう。
さらに平十郎は「母成関門まで御打入に相成候、刻限同日未の中刻頃と奉存候」(同)とも記しており、峠へ西軍が突入したのを午後2時頃としている。西軍側の記録では2時頃には第二線陣地が落ち、そのままの勢いで峠の第三線に突入したとあるので、こちらの時間もそう悪くない記述だと考えられる。平十郎の記述に比較的信用が置けることを示す証拠になる。
もう一つ、同書には案内人橋本次郎七の碑文も掲載されている。それによると平十郎は案内人を抽選で選び出し、次郎七ら3人は「川村能義大将を主とする軍勢三百人」を案内して「山葵沢」を案内したという(p439)。こちらは左翼部隊の案内人であり、主要街道はともかく左右の間道を行く部隊には案内人がついていたことが分かる。
ただし碑自体は昭和に入って建てられたものであるため、内容をそのまま信じるのは難しいだろう。でも平十郎の史料にも「薩州様四番隊、川村与十郎様付御教導」へ次郎七が差し出されたという文章がある(p434)ので、左翼部隊に案内人がついていたことはやはり確実と見られる。この次郎七も「九月二十日まで、二本松より若松まで都合日数三十五日御用筋相勤」(同)とあり、平十郎同様、長期間西軍に使われていたようだ。
歴史で言及されることは少ないが、戦争において案内人は欠かせない存在である。ただ平十郎や次郎七は勝者の側の案内をしたおかげで記録が残されたが、おそらく戊辰戦争時には東軍の案内を務めならが記録に残らなかった者も大勢いたはず。戦争は色々な人間に容赦なく影響を及ぼす。
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