イエナの皇帝

 気がつけばもう今月も終わりそうだ。取りあえずナポレオン漫画について言及しておかねば。それにしてもイエナの戦いが1回で終了ってのはかなり早いペース。第一次イタリア遠征当時の時間のかけ具合に比べるとあっさり終わった感が否めない。それともアウエルシュテットを長々とやるつもりなのか。という訳で今回の参考サイトはこちら"http://www.dailymotion.com/video/x6fpu7_1806-engl_videogames"。前にも紹介したことがあるが、ナポレオン関連動画としては非常によくできたものの1つだ。
 
 では史実との比較を。冒頭でナポレオンが指揮を取りながら大砲を「丘の上」に運んでいるシーンだが、このラントグラーフェンベルクと呼ばれる丘に大砲を引っ張り上げる作業が行われたことは、イエナの戦い翌日に出された大陸軍公報第5号で既に掲載されている。
 
「[1806年10月]13日午後2時、皇帝はイエナに到着し、そして我らの前衛部隊が占拠している小さな高地から彼は敵の配置を見た(中略)。実際、高地はとても小さく歩兵4個大隊がほとんど展開できないほどで、そこに砲兵を集めることが可能とは思われなかった。彼らは岩の道で終夜働き、どうにか砲兵を高地へ導いた」
Campagne de Prusse, Iéna"http://books.google.co.jp/books?id=TteUuMfR1_EC" p615
 
 この時のナポレオンの様子はスーシェの報告に記されている。
 
「皇帝の冷たい沈黙は彼が怒っていることを示していた。彼は軍の砲兵指揮官に多くを訊ねようとしたが、驚くべきことに彼はそこにいなかった。それをとがめるのではなく、彼は自ら砲兵士官となり、砲兵たちを集め、彼らに砲兵隊の道具と手提げランタンを持たせたあとで、大砲の車軸がもはや岩を考慮しなくてすむまで谷間を広げるべく彼の命令下で働く砲兵たちを、自ら手に持ったランタンで照らした。皇帝が自らランタンを手に持って明かりを照らしているのを見た砲兵たちの顔に何が起き、彼らが岩を叩く力を倍加させた様子を、私は常に目の前で見ていた。誰もが疲れきっていたが、自らの提供する軍務の重要性を嗅ぎ取って誰も不平を言わず、皇帝自身が士官たちに模範を示すほどの必要性に対する驚きを示すといった無駄もしなかった。夜遅くになって最初の車両が通過するまで、皇帝はそこから退かなかった。彼はそれから宿営地に戻り、さらになお休憩前にいくつかの命令を送り出した」
p589
 
 ただイエナの町が焼かれたという話は見た記憶がない。というかここを焼くのはむしろフランス軍にとって不都合なはず。この時点でザーレ河左岸にいたのはランヌとオージュローの軍団くらいで、スールトやネイ、ミュラといった連中は急いでザーレを渡るべくイエナの橋に向かっていたところ。橋のたもとが大火事になったりしては、彼ら増援の動きが止められてしまう。
 またイエナ周辺の地形図を見れば一目瞭然なのだが、イエナの町からラントグラーフェンベルクへ登る坂道は、高地の上に展開していたプロイセン側から見れば「反対側斜面」に当たり、そこの様子を見るのは物理的に不可能。敢えて問題があるとしたら上空への照り返しが考えられるくらいだが、手提げランタン程度の小さな明かりで大きな照り返しがあったかどうかは疑問だし、既にラントグラーフェンベルクの上にランヌ軍団が布陣していたのだから、照り返しがあったとしても彼らのかがり火によるものと判別がつかないだろう。
 
 次にネイの話、は長くなりそうなので次回に回し、最後のシーンについて。ナポレオンがアウエルシュテットの戦闘についてイエナの戦い中に気づいていなかったという話は、ブレン大佐が伝えているようだ。曰く「皇帝は終日ダヴー及びベルナドット軍団のことを気にかけていた。(中略)この方面に砲声が聞こえたと信じられていたが、この日は彼らについて何のニュースも得られなかった。彼[ナポレオン]はプロイセン全軍を相手にしていないことはよく気づいていたが、国王の軍は彼の正面にいると信じていた」(p619n)。しかしその後で、ナポレオンの下にダヴーの報告が届いた。
 
「ダヴー元帥から皇帝へ
 アウエルシュテットの宿営地にて、1806年10月14日
 ケーゼンから出撃する際に、4分の1リューのところにこの出口を奪取しようと移動していた敵を発見したことを、陛下に謹んでお知らせします。戦いが続いて始まり、それは血腥い争いとなりました。プロイセン王、ブラウンシュヴァイク公及びメレンドルフ元帥と6万人以上の兵が陛下の第3軍団と勝利を争い、敵砲兵のほとんどが我らの手に残りました。捕虜の数はそれほど多くありません。私が持っている少ない騎兵では、彼らは極めてよく仕えてくれたものの、歩兵の成果を充分に生かすことはできませんでした。ベルク大公は昨日、サユークの竜騎兵師団を引き揚げていました。
 陛下は多くの勇敢な兵を失い、その中にはデビリー将軍、ヴェルジェ、イゴネ、ヴィアラ、ニコラ大佐が含まれており、他の何人かも負傷しました。いくつかの連隊は士官の大半を失い、損害の数は極めて多いです。
 ブラウンシュヴァイク公は頭部を酷く負傷しており、致命傷だと見られています。
 プロイセンの将軍たちも傷つきました。其の中には国王の叔父であるアウグスト親王も含まれています。
 国王の2人の兄弟もこの戦いにいました。近衛騎兵及び歩兵は多くの損害を受けました。
 弾薬の不足で部隊は極めて弱体化しており、私は夕7時頃に陣を敷きました。今夜、弾薬を補充し武器を使える状態にして、翌日には陛下の命令を実行する準備ができるでしょう。
 フリアン、ギュダン及びモラン将軍の行為に対し多大な称賛を言わなければなりません。ドルタンヌ将軍は全軍に名を馳せました。
 いずれ陛下に、士官たちと兵士たち全ての輝かしい行いを知らしめるため必要な詳細を謹んでお知らせいたします。
 敵はヴァイマール方面へ交代したように思われます」
p672
 
 面白いことに、Foucartが14日にアウエルシュテットで書かれたとしているこの文章、Capitulation militaires de la Prusse"http://books.google.co.jp/books?id=BkZGAAAAYAAJ"によれば16日にツィスレスバッハで書かれたことになる(p63-64)し、Correspondence du maréchal Davout"http://books.google.co.jp/books?id=KF4IAAAAQAAJ"によれば14日にエッカーツベルクの宿営地から出されたものとなる(p276)。
 このうち出版の時期が早いのはCapitulation militaires...だが、中身を見ると「翌日には陛下の命令を実行する準備ができる」と書かれているなど、16日の文章としては辻褄の合わないところがある。またダヴーが報告書で称賛しているフリアン、ギュダン、モラン、ドルタンヌの名は、15日付で出された大陸軍公報第5号でも名前が挙がっている(Correspondance de Napoléon Ier, Tome Treizième"http://books.google.co.jp/books?id=UK3SAAAAMAAJ" p357)ため、15日以前にナポレオンの下にダヴー報告書が届いたと考えた方が整合性が取れる。おそらく14日のうちにダヴーは報告書を書いたのだろう。
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