母成峠の戦い 3

 承前。第二線陣地の陥落後、東軍による組織的抵抗はなかったようだ。薩摩十一番隊は「二時計の間に散々追散」(同 p199)と記し、第二線陥落後は追撃が中心だったとしている。十二番隊は「午鳴(母成)峠絶頂に関門相立堅固に築立候台場にも賊兵足を留め兼其儘遁走」(同 p216)、一番砲隊も「峠関門涯迄押行候処分て厳重の砲台築居候得共以前両度の激戦に恐怖いたり候哉砲台者勿論大砲弾薬等都く打捨夫形逃去賊一人も不相見得候」(同 p230-231)、三番砲隊も「外二ヶ所は最早賊一人も不相見得」(同 p251)、右翼部隊の久時衛隊も「先進遂に保成[母成]の関門に入り賊砲三門を奪う賊此地に厳に関門を設け砲台を築き数多の陣屋を構え頗る防戦の設けありと雖も一敗地に塗れ更に一支も不能」(谷遺稿 p146)と記しており、現場にいたほとんどの隊がろくな抵抗を受けなかったことを記録に残している。兵具方一番隊によると東軍が「悉く追崩」(薩藩出軍戦状第2 p180)されたのは午後3時頃だった。
 この最終局面において、大鳥は「関門の傍に下り敗兵を聚め此所にも堅固の胸壁あれば今一防戦と頻りに指揮」したものの、この本営の陣屋に何者かが火をつけたため東軍の兵は「敵已に後方に回れりと言い触らし、追々逃去り踏みとまるもの甚だ少し」(幕末実戦史 p77)。ここで負ければ「会藩の滅亡旦夕にあり、今一奮戦」(同 p77-78)と叫んでみたものの、残ったのは会津藩首脳の田中や小森といった数人だけ(七年史によれば著者の北原雅長もそこにいた 446/486)で、もはや打つ手はなかった。大鳥が「勝岩の上に出る兵隊は未だ此の事通じる暇なき」(幕末実戦史 p78)と書いているのは、勝岩(猿岩)と本道の間に楔を打ち込まれ、そのまま敗走に到った戦闘経緯を裏付けるものと言えるだろう。
 「大概夕五字過ぼない峠関門涯に兵を引まとめ止陣致し候」と一番遊撃隊が書いている(薩藩出軍戦状第1 p306)ように、夕方5時には西軍本隊と右翼部隊は宿営に入った。午後4時(伊集院兼寛手記によれば午後5時頃、復古記 p142)に達沢に到達した左翼部隊は本格的戦闘には参加できず、東軍敗残兵の一部を掃討するにとどまった。かくしてこの日の戦いは西軍の圧倒的勝利に終わった。
 
 東軍の直接の敗因は、第二線陣地の「中間」に複数の楔を打ち込まれたことにある。それをもたらした一因が、大鳥による勝岩(猿岩)から本道への兵力移動にあることは否定できないだろう。激しい攻撃を受けている本道を応援するために兵を動かした結果、勝岩方面が手薄になり、そこに霧を利用した西軍右翼部隊が潜り込んで戦線を崩壊させた。右翼の寄与は戦闘から一週間後に書かれた太政官日誌の薩摩藩報告でも認められており、「右を回りし長州土州の人数も進来り」(太政官日誌 79/122)との一文がきちんと書かれている。
 もう一つ、東軍指揮官の問題があるとしたら、萩岡の第一線陣地が孤立したまま比較的短時間で陥落した点が挙げられる。第二線は本道側と勝岩側が連携して戦っていたが、第一線は単独で西軍と交戦し敗れており、そこにいた兵力は無駄に消耗した感が強い。実は萩岡は単なる前哨線であり、敵の動きを偵察するのが最大の目的だったのかもしれないが、それなら陥落した時に大鳥が「甚だ不思議に思」(幕末実戦史 p77)うのはいささか迂闊ではないだろうか。
 とはいえこれら現場指揮官たちのミスは東軍敗北の根本的な理由ではない。最大の要因は言うまでもなく東軍戦力の圧倒的不足にある。兵力が少なすぎたからこそ前哨線である萩岡第一線の敗北すら問題になるし、兵力不足でおそらく予備を置く余裕すらなかったことが勝岩の兵を本道に振り向けた背景にあるのだろう。本道側が西軍による本格的な攻撃にさらされ、いつ圧倒されてもおかしくないと思ったからこそ、大鳥は圧力が減っていると思った勝岩の部隊を引き抜いた。本道側の戦力に余裕があればそんなことをする必要はなかったし、あるいは予備部隊が充分にあればそちらを投入するのが筋だ。
 大鳥は8月上旬に母成峠を視察し、「防ぐには甚だ難渋なり(中略)此を防ぐ兵数を問うに五百人程なりと云う、縦令精兵にても二千人余より以下にては覚束なし、然るに五百人なれば第二大隊を合して漸く七百人なり」(幕末実戦史 p70-71)と兵力不足を指摘している。この500人のうち「多くは農兵にて節制なきもの」としているが、実際に戦闘経緯を調べてみると少なくとも第二線のような整った防御施設にいる場合の農兵は結構頑張ったように思う。士気の低い民兵であっても戦い方次第では何とかなることの証左だろう。ただしそれは背後に回りこまれないことが条件であり、そのためには「中間」に簡単に潜り込まれないよう、もっと数をそろえる必要があった。
 大鳥は峠の視察後、若松城下へ戻って増援を要望したが断られた。彼は「全体会藩には会計俗吏多分に有之、成るたけ此を減員し兵に用いたしと云う事も先頃より申し述ぶれども、何分未だ俗吏の権強く、因循の風止まず、其の策も行われず」(同 p72)と嘆いている。彼の指摘がどの程度正しいかは分からないが、現場指揮官の能力が及ばないところで戦闘の行方が決まったことは事実だろう。
 
 一方、西軍の史料を見る限り活躍が目立つのは迂回や浸透戦術を実行している歩兵たちだ。第一線陣地では右翼から迂回してきた薩摩の第一遊撃隊による「横矢撃」(薩藩出軍戦状第1 p305)で東軍はすぐ散々となり、土佐砲隊が小銃を携えて回り込み「胸壁の東部より突進」(復古記の山内家記 p140)したことで瞬時に敗走した。第二線を巡る争いでは2つの楔が効果的で、本隊の迂回攻撃では「賊兵狼狽に及び悉敗走」(薩藩出軍戦状第1 p305)、右翼部隊では長兵が「左大台場の背に」、土兵が「右猿岩の胸壁に向い賊の横に」射撃を浴びせてやはり東軍を敗走させた(谷遺稿 p146)。
 彼らの活躍は数的優位という西軍の利点を最もよく生かしたものと言えるだろう。数の少ない東軍の陣地にはどうしても守りが手薄な場所が生じる。それは砲台の側面であったり、防御陣地の隙間となる地域だったりする。数の多い西軍の「銃隊は、各藩の兵と左右に分れ、烈しく攻撃」(復古記の島津忠寛家記 p141)を浴びせる。散開した兵が防御の弱いところを進んでいくことで東軍の側面や背後に出て勝負をつける格好だ。
 それに対し集中運用を行った砲兵の効果については、歩兵の迂回浸透戦術ほど明確ではない。確かに第二線で「弾丸悉く敵の砲台に至て破裂し、賊、狼狽」(同 p141)と書いている史料もあるが、多くは砲撃にも関わらず東軍が「暫時」抵抗を続けたと記録している。農兵中心の東軍が3時間にわたって砲撃に耐えたことまで踏まえるなら、むしろ効果は限定的だったと見るべきかもしれない。長州の大砲のみが砲撃を行った右翼部隊はもっと酷く、弾を多く撃たない西軍に向かって伝習隊を中心とした東軍は「大に笑い悪口種々」(谷遺稿 p145)を浴びせてきたほどだ。
 きちんと構築された防御陣地に対し、正面からの砲撃だけでは効果は限定的なのだろう。胸壁に守られていれば農兵でもそこそこ抵抗を続けることはできる。だが側面や背後に回りこまれてしまうと、士気の低い農兵はもとより、戦闘経験豊富な伝習隊ですら敗走に移り、西軍が「猿岩の胸壁を奪」(同 p146)うことを可能にしてしまう。砲兵隊による正面からの物理的衝撃より、一握りの歩兵による側面や背後からの精神的衝撃の方が、戦闘結果に大きな影響を及ぼしたのかもしれない。
 つまり母成峠の戦訓は、実は第一次大戦における塹壕戦を先取りしたものだった、とも考えられるのだ。砲撃と言う物理的手段で防御陣地を潰すのは不可能。それよりも小規模部隊が抵抗の弱いところを選んで前進し、敵の側面や背後に出てその連絡を撹乱し、敵の士気を弱める方がずっと効果的であることがこの戦闘で明らかになった。浸透戦術こそが来るべき時代の主役になることを、母成峠の戦いは第一次大戦の半世紀も前に立証していたのである……と断言するのはさすがに言い過ぎか。
 
 それにしても、ここまでにまとめた戦闘経緯は基本的に太政官日誌に載っている薩摩藩報告の流れと同じ(太政官日誌 79/122)である。この報告の著者名は載っていないが、その中身は簡にして明。同じ太政官日誌の文章でも板垣退助の書いた土佐藩による報告("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787626" 42/126)がとっちらかった印象があるのに比べ、実によくまとまっている。何のことはない、母成峠の戦いについては、戦いから一ヶ月もしないうちに決定版とも言うべきまとめが既にあったのだ。
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