母成峠の戦い 2

 承前。さて本隊を構成していた薩、長、土、佐土原の4藩部隊はまず石筵へ向かった(薩摩出軍戦状第1 p216、230、305、復古記の戊巳征戦紀略 p139、同島津忠寛家記 p141など)。ここで山葵沢へ向かう左翼部隊が本隊と分かれた(薩摩出軍戦状第1 p17、24、52など)。だが彼らが「房内[母成]関門の後」に出た時には「関門已に破て遁兵を追撃」(薩藩出軍戦状第1 p52)するしかできなかった。彼らが峠の背後に到着したのは「夕七つ時」(午後4時頃)であり、峠は本隊及び右翼部隊によって既に突破されていたためである。
 西軍本隊がまず接触したのは東軍の第一線陣地、つまり萩岡の陣地である。前にも述べたがこの陣地については各種史料で「高原の下」や「小高岡」という表現がなされており、おそらく平野部が終わり山岳部が始まる場所に構築されていたと思われる。現在の地図で言えば「石筵ふれあい牧場」"http://www.fureai-bokujo.jp/"の北側にある丘のあたりに存在したのではないだろうか。薩摩三番砲隊が書いている「萩岡平」(薩藩出軍戦状第1 p250)は、電子国土ポータル"http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/index.html"を見ても、ふれあい牧場とその南側に広がる平坦な地形を意味しているものと思われる。
 第一線陣地に対しては薩摩十一番隊が「萩岡にて及砲戦候」(同 p198)、同一番砲隊が「此方よりも大小砲を手繁く放発候」(同 p230)とあるように、大砲の砲撃と歩兵の射撃がそれぞれ行われた。その間に薩摩の一番遊撃隊及び兵具方一番隊の歩兵が右側から東軍第一線の側面と背後に回りこんで攻撃(同 p305、薩藩出軍戦状第2 p179-180)。一方、土佐藩の砲兵は、理由は不明だが大砲を使わず「専ら小銃を携え」やはり東側から第一線陣地を攻撃(復古記の山内家記 p140)。砲歩連携による攻撃が功を奏してここを落とすことに成功している。特に歩兵の行動は効果的だったようで、側面攻撃によって東軍は「即散々に相成」(薩藩出軍戦状第1 p305)、「須臾にして敗走」(復古記 p140)した。時間は七年史によれば「巳の下刻」(七年史 446/486)つまり午前10時~11時。一方、大鳥は「四ツ半頃にもありけるか南方の方砲声衰えたる様様(第二大隊の持場と南方の口とは間隔一里余もあり)」(幕末実戦史 p77)と書いており、第一線陣地の戦闘終了が午前11時頃だとしている。
 萩岡の陣地は炎上した。東軍第二線陣地にいた大鳥はこの火焔を見ており、引き揚げてきた会津兵から「敵入りて陣小屋へ火を放ちたり」(幕末実戦史 p77)という話を聞いている。西軍本隊は母成峠へ向かう山地に入り込み、やがて勝岩(猿岩)にいる東軍の右翼側に相当する本道側第二線陣地へと接近した。猿岩で膠着状態に陥っていた西軍右翼部隊からも「本道の方亦砲声烈しく追々賊を追て賊の胸壁に迫る」様子が把握できた(谷干城遺稿 p145)。
 
 第二線陣地は西軍から見て結構高い場所にあったようだ。佐土原藩の島津忠寛家記に「賊、又高丘に砲台を設け、頻りに砲発す、彼れ高に在て下射し、弾丸雨注、官軍仰て之を攻む」(復古記 p141)と書かれているほか、薩摩第一砲隊も「高岳へ砲台諸所築居是以大小砲を眼下に放射」(薩藩出軍戦状第1 p230)と記している。一方、西軍が布陣していた南側は薩摩十二番隊によれば「一面広野見得渡候地形」(薩藩出軍戦状第1 p216)とある。電子国土ポータルの2万5000分の1地図に従うなら、銚子ヶ滝西側にある標高984メートルの頂の南方400~500メートルのところにある等高線の開いたあたりで西軍は「諸隊散隊に開き」(同)て攻撃に出たのだろう。
 山内家記には「賊、又山勢高下に従い、三砲台を築く」(復古記 p140)とあるが、うち最も高いところの砲台は当初は猿岩側を攻撃していたという。薩摩の九番隊は「双方の岡手に砲台を設居候」(薩藩出軍戦状第1 p170)と記し、太政官日誌も「第二の砲台は夫より十町位先き双方に構え有之」(太政官日誌 79/122)と書いているので、西軍本隊はまず低いところにある道の両側に設けられた砲台を相手にしたと見られる。
 ここの戦闘は長引いたようだ。薩摩九番隊は左手の砲台を攻撃したが「四ツ半時分[午前11時]より八ツ時[午後2時]比まで大小砲うち合」(薩藩出軍戦状第1 p170)と、戦闘時間が3時間に及んだことを証言している。また山内家記もこの砲台への攻撃について「時に午後なり、賊亦能く防ぐ、勝敗未だ判せず」(復古記 p140)と記している。他に時間まで言及している証言はないが、西軍各部隊の記録は十二番隊「賊共暫は厳敷防戦候」(同 p216)、一番砲隊「暫時の間は実に厳敷砲戦に候」(同 p230)、三番砲隊「余程致防戦居候」(同 p251)、一番遊撃隊「暫時手強き防戦致し候」(同 p306)など、第二線陣地でしばし厳しい抵抗に遭遇したという点でほぼ一致している。
 
 この時、西軍側に奇妙な動きが起きた、と東軍は思い込んだ。大鳥によれば「勝岩より上の敵は我が火の烈しさによりて胸壁近く次第に引退き勝岩より下に回り南方に進みければ、勝岩の方も砲撃減ぜり」(幕末実戦史 p77)となる。七年史では少し異なり、萩岡の消失に伴い「火延て野萱を焼き、西兵勝岩に進むことを得ず、路を転じて南方に進む」(七年史 446/486)と書かれている。東軍の射撃のためか、それとも戦場に発生した野火のためか、勝岩方面の西軍が南へ、つまり本道に接近するように動いたというのだ。
 西軍側でこれに相当する記録が見当たらないため、西軍が南方へ移動したというのはおそらく東軍の見間違いであろう。だがこのタイミングは、手詰まりに陥った西軍右翼部隊が「進に術なく、稍発砲を止め、以て時機を待」(復古記の山内家記 p140)っていた時でもあった。おそらく霧のため敵を目視できず、砲声だけで判断していたことも要因であろうが、大鳥は勝岩への攻撃が減ったと判断して「因って第二大隊の中一小隊も中軍山の方へ回し応援をなさしめん」(幕末実戦史 p77)と決断した。これは致命的な結果をもたらした。同時にそれまで猿岩側に向かって射撃していた「高処の砲台も亦、猿岩の発射を止め、専ら本道を防ぐ」(復古記の山内家記 p140)ようになった。
 それ以前に「賊等一部は[北方へ向かった祖父江]可成隊を防ぐ為嶽山に登」っていた。そしてこの時、「一部は本道の方大台場に行き残る所甚少し」(谷遺稿 p145)と気づいた谷に対し、長州藩第二中隊から険しい谷間(大鳥の言う勝沼か)を越えての攻撃が発案される。同意した彼は「近辺に有る久時衛隊[第十九隊]に命」(同)じて長州藩兵に追随させた。その兵力は谷遺稿によれば「[土佐藩兵]二十三四人なり長亦二十人計」(同)、山内家記によれば「各二十五六名を(原註、合て四五十名計と覚う)」(復古記 p140)、戊巳征戦紀略によれば「我[長州藩]兵二十人、土[佐]兵十人」(同 p139)。全体として30~50人の兵がこの企図に臨んだようだ。長州藩兵を率いたのは「楢崎頼三」(維新戦役実歴談"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980714" p454)だという。
 彼らは険しい道を乗り越えて「猿岩と本道との両胸壁の間に出」(谷遺稿 p146)た。霧にまぎれて接近したためか「賊、更に不覚、疑い認め、味方と為すに似たり」(復古記の山内家記 p141)。味方と勘違いした東軍に対し、西軍の「長兵は多く左大台場[本道側]の背に向い[土佐の]時衛隊は右猿岩の胸壁に向い賊の横に発射」(谷遺稿 p146)した。敵であることに気づいた東軍は混乱し、勝岩(猿岩)にいた伝習隊らは「胸壁を棄て敗走」、そして「本道砲台の兵も亦、顧て敗す」(復古記の山内家記 p141)。正面の敵が逃げ出したのを見た西軍右翼部隊は「全軍大声を放ち喇叭を吹き一時に絶谷を越え賊を追」(谷遺稿 p146)った。
 右翼部隊の活躍とほぼ同じタイミングで、本道の西軍本隊でも東軍を迂回しようとする動きがあった。第一線陣地突破に活躍した薩摩の第一遊撃隊と兵具方一番隊は相談のうえ「右岡より又々深谷に下り谷川を打渡(中略)砲台右手を馳通り右脇より砲台へ進撃に及び候」(薩藩出軍戦状第1 p306)という。彼らが迂回したのは本隊が相手にしていた砲台なので、おそらく第二線陣地でも最も高い所の砲台(谷遺稿に言う左大台場)ではなく、それより下の本道両側にあった砲台のうち東側に存在していたものだろう。つまり西軍は本道右側から2ヶ所で砲台の隙間に潜り込むことに成功したと思われる。
 タイミングもよかった。薩摩第一遊撃隊と兵具方一番隊の移動は右翼部隊も気づいていたようで、楢崎隊と久隊が猿岩と左大台場の中間に進出した「時に本道の戦い甚烈し左右より散布して中間の台場に迫る戦い甚急なり」(谷遺稿 p146)とある。示し合わせた訳ではないだろうが、結果として右翼部隊と本隊歩兵による迂回浸透作戦が同時に実行され、東軍の戦線に複数の楔を打ち込んだ。結果、東軍第二線陣地は一気に崩壊。この時点で母成峠の戦いは実質的に終了した。
 東軍の大鳥はこの瞬間を自分の目で見ていない。彼は勝岩の部隊の一部を本道に向ける際に「十丁許りも上りける」(幕末実戦史 p77)と書いており、戦場から1キロメートル強上の方にいたようだ。なぜ最前線で指揮を執らず、そんな後方にいたのか理由は不明だが、いずれにせよ彼はそこで第二線が突破されて「歩兵共追々引退く色」を見、さらに「八ツ時前なる頃敵早や中軍山よりも近き山上に来り砲発せり」(同)と記している。午後2時前には第二線陣地のある中軍山を乗り越えて敵が峠に接近してきたとの主張だ。一方薩摩の九番隊は第二線の「左右の台場八ツ過比乗とり候」(薩藩出軍戦状第1 p170)としている。大鳥とは微妙に時間がずれているが、全体として午後2時頃には第二線陣地が落ちたのは間違いないだろう。
 
 以下次回。
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