母成峠の戦い 1

 大山柏は戊辰役戦史で、母成峠の細かい地名について正確な情報を得られず、その位置の比定に失敗。結果として間違えた地名と史料との辻褄を合わせるため、アクロバティックな戦闘経過の解釈を強いられた。だが現代の我々にはインターネットという便利な道具がある。現地の人が立てた看板を遠方にいたまま確認できるし、萩岡の地名が載っている地図も見ることができる。ならばその知識を利用し、史料を再解釈して母成峠の戦いがどう推移したかをまとめることも可能だろう。
 
 まず先頭前の配置だが、どうやら東軍のうち本道の第一線陣地(萩岡)にいたのは会津兵だったらしい。第一線が敗れた時に「会津の兵引揚げ」(幕末実戦史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900018" p77)と大鳥が記しているのがその理由。また本道第二線の中軍山も会津藩の田中源之進が指揮を執っている(同 p76、七年史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772821" 446/486)ので、ここも主力は会津だろう。
 第二線左翼に当たる勝岩(猿岩)の上の方には伝習隊第二大隊と二本松兵、下の方には伝習隊第一大隊と新撰組がいた(幕末実戦史 p76)。二本松藩の丹羽長裕家記は彼らの配置場所を関門近くの「八幡村二枚橋」(復古記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555" p143)としているが、地元にある看板を信じるならこの二枚橋は勝岩の最左翼にあったようだ"http://www.pacs.co.jp/hist_walk/walk_fukusima02/inawasiro_bonari_touge/index.html"。あと東軍には仙台藩兵もいた(仙台戊辰史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773429" p720)が、母成峠での配置は不明である。
 一方、西軍は薩摩、長州、土佐、大垣、大村の5藩(太政官日誌"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787624" 78/122)が攻撃したとされているが、実際には大村藩と薩摩藩の一部は中山峠攻撃に回り(復古記の大村純熈家記と渡辺清事跡 p142)、一方で母成峠攻撃には薩摩の支藩ともされる佐土原藩の部隊が加わっていたようだ。彼らが母成攻撃部隊を3つに分けたのは既に言及した通り。うち右翼は、戊巳征戦紀略曰く長州藩の二番中隊(復古記 p139)、及び山内豊範家記曰く土佐藩の第二第四合隊、第三隊、第八隊、第十三隊、第十七隊、第十八隊、第十九隊によって構成されていた(同 p140)。戊辰役戦史では長州藩の部隊を三番中隊としているが、同じページの中央隊にも長州藩の三番中隊が載っているので、おそらく書き間違いだろう(p37)。
 左翼は薩摩の一番から六番隊(薩藩出軍戦状第1"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717")と、大垣藩の東山道戦記に「薩及吾藩の兵三百人計、左の間道へ回り」(復古記 p142)とあるので大垣藩兵も参加。中央を進む本隊は薩摩藩の九番、十一番、十二番隊、一番遊撃隊、一番から三番砲隊(薩藩出軍戦状第1)、及び兵具方一番隊(薩藩出軍戦状第2"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917732")が戦闘に加わったほか、後方から番兵一番隊と私領二番隊が追随(薩藩出軍戦状第2)。長州藩は戊巳征戦紀略曰く三番隊と四番一小隊(復古記 p139)、土佐藩は山内豊範家記曰く砲隊と第一第五合隊、第六、第十四、第二十一及び断金隊らが参加(同 p140)。さらに島津忠寛家記に「薩、長、土並佐土原本道より進む」(同 p141)とあるように佐土原藩兵が加わった。
 戊辰役戦史(p38-39)によれば大垣藩は3小隊、佐土原藩は2隊と1砲隊で構成されていたそうだ。ただ中央隊の薩摩兵について番兵一番隊と私領二番隊を除き、代わりに私領一番及び三番隊を挙げている理由は不明。少なくとも薩藩出軍戦状第2を見る限りそうした記述はない(p227、242)。また中央隊の土佐藩兵は断金隊以外に6隊あったとしているが、これは山内家記に全体をあわせて「凡七小隊」(復古記 p140)とあるのを反映したものだろう。また中山口に対して行われた陽動部隊には薩摩2隊、長州・土佐・大垣それぞれ1小隊、大村の3隊?と砲隊が参加したという。
 なお戊辰役戦史をはじめ多くの文献で砲隊は全て本道の本隊に集められたとしている。維新戦役実歴談"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980714"にある梨羽時起の証言に「野砲其他重なる隊を中央より進め」(p453)とあるのが理由だろう。だが谷干城遺稿"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991229"を見ると、そこでは「我猿岩に向かう[右翼部隊の]兵大砲なし」としながら一方で「長の大砲後れ来り頻りに前岸の胸壁を射る」と書いている。土佐藩の砲隊が本隊と一緒に行動していたのは事実だが、長州藩の場合は側面部隊と一緒に行動していたようだ。
 双方の兵力に関して言うと、大鳥は東軍の数を約700人と記している(幕末実戦史 p71)。一方、明治時代に書かれた戊辰戦史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/773513"によれば、西軍は大村藩を含めて「総軍凡そ2000人」(80/243)としている。中山峠に向かった数が約300人(太政官日誌"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787624" 78/122)なので、母成峠へは1700人が向かった計算になる。他にネットでは東軍800人、西軍2200人といった数字も見かける"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E6%88%90%E5%B3%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84"が、いずれにせよ西軍が圧倒的に優勢だったのは間違いないだろう。
 
 西軍はまず玉ノ井村で右翼部隊が分かれ、山入村を経て猿岩(勝岩)へ向かった。谷干城遺稿によれば玉の井を出て「昨日戦争せし山入村を通り嶽ヶ山の半腹を左へ小路」(p144)を進んだとあるので、石筵を経由していないことは明らかだろう。太政官日誌も「石筵と申所の前路より惣勢を三に分」(79/122)とあり、石筵到達前に隊を分けていたと記している。
 山入村では前日の8月20日に両軍の戦闘があり、敗走した東軍の物品が残されていた。谷ら右翼部隊はこの村を通過する際、弾薬箱に書かれた「猪苗代行き大鳥圭介渡り」という文字を見て初めてここを大鳥が守っていることを知ったという(谷干城遺稿 p144)。さらに前進した彼らは猿岩で東軍と接触。両軍の間には急峻な谷間があったため、そこを挟んでの射撃戦となった。時刻は午前9時頃だった。
 谷によれば東軍は「砲台を高所に築き大砲二門を以て烈しく猿岩の官軍を射」たという。さらに正面の岩には胸壁3ヶ所も備えており、そこからの射撃に対して西軍は散開して僅かな物陰に隠れるしかなかった。ただ胸壁上にあった多くの砲台は全く射撃を行っていない。後に判明したところによるとこれらの大砲は実は木製の砲身で、中に小石が詰めてあったそうだ。おそらく至近距離に西軍が接近してきた時に散弾として1回だけ発射するつもりだったのだろう。両軍の距離は「六百ヤルト位」(p145)だった。
 山内家記によれば、本道に構築された第二線陣地のうち「最高所の砲台は、初めより右間道、猿岩の諸隊と戦う」(復古記 p140)とあるので、右翼部隊は猿岩だけでなく本道側の部隊の一部からも射撃されたのだろう。そこで祖父江が北方への迂回を試みたが、既に述べたようにそれは失敗に終わった。その時、霧が生じて短時間で両軍の視界を奪い「皆霧中只砲声を聞く」(谷遺稿 p145)。この霧は後に戦局に大きな影響を及ぼす。そしてまたこの頃から本道での戦闘も始まった(復古記の山内家記 p140)。
 
 以下次回。
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