大山柏は戊辰役戦史で、母成峠の細かい地名について正確な情報を得られず、その位置の比定に失敗。結果として間違えた地名と史料との辻褄を合わせるため、アクロバティックな戦闘経過の解釈を強いられた。だが現代の我々にはインターネットという便利な道具がある。現地の人が立てた看板を遠方にいたまま確認できるし、萩岡の地名が載っている地図も見ることができる。ならばその知識を利用し、史料を再解釈して母成峠の戦いがどう推移したかをまとめることも可能だろう。
西軍はまず玉ノ井村で右翼部隊が分かれ、山入村を経て猿岩(勝岩)へ向かった。谷干城遺稿によれば玉の井を出て「昨日戦争せし山入村を通り嶽ヶ山の半腹を左へ小路」(p144)を進んだとあるので、石筵を経由していないことは明らかだろう。太政官日誌も「石筵と申所の前路より惣勢を三に分」(79/122)とあり、石筵到達前に隊を分けていたと記している。
山入村では前日の8月20日に両軍の戦闘があり、敗走した東軍の物品が残されていた。谷ら右翼部隊はこの村を通過する際、弾薬箱に書かれた「猪苗代行き大鳥圭介渡り」という文字を見て初めてここを大鳥が守っていることを知ったという(谷干城遺稿 p144)。さらに前進した彼らは猿岩で東軍と接触。両軍の間には急峻な谷間があったため、そこを挟んでの射撃戦となった。時刻は午前9時頃だった。
谷によれば東軍は「砲台を高所に築き大砲二門を以て烈しく猿岩の官軍を射」たという。さらに正面の岩には胸壁3ヶ所も備えており、そこからの射撃に対して西軍は散開して僅かな物陰に隠れるしかなかった。ただ胸壁上にあった多くの砲台は全く射撃を行っていない。後に判明したところによるとこれらの大砲は実は木製の砲身で、中に小石が詰めてあったそうだ。おそらく至近距離に西軍が接近してきた時に散弾として1回だけ発射するつもりだったのだろう。両軍の距離は「六百ヤルト位」(p145)だった。
山内家記によれば、本道に構築された第二線陣地のうち「最高所の砲台は、初めより右間道、猿岩の諸隊と戦う」(復古記 p140)とあるので、右翼部隊は猿岩だけでなく本道側の部隊の一部からも射撃されたのだろう。そこで祖父江が北方への迂回を試みたが、既に述べたようにそれは失敗に終わった。その時、霧が生じて短時間で両軍の視界を奪い「皆霧中只砲声を聞く」(谷遺稿 p145)。この霧は後に戦局に大きな影響を及ぼす。そしてまたこの頃から本道での戦闘も始まった(復古記の山内家記 p140)。
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