母成峠 3

 これまで母成峠の戦いについて細かい点を調べてきたが、今回はもう少し全体像を見た話を。母成峠の戦闘がどのような経緯を辿ったかについては、こちら"http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/bakumatu/bonari.htm"やこちら"http://blog.goo.ne.jp/kidouhan/e/112565728116ac15a1dd0d253ee1cf91"、さらにこちら"http://irisio.seesaa.net/article/30765691.html"などに書かれている。その概要を大雑把にまとめれば以下のようになるだろう。
 
1)東軍は3段構えの陣を敷いた。西軍は本道を進む本隊の他に左翼部隊と右翼部隊を出し、3個縦隊で攻撃に出た。
2)最初に接触したのは西軍右翼部隊と東軍第二線陣地の左翼勝岩(猿岩)。
3)続いて西軍本隊が東軍第一線陣地を攻撃するが、東軍は予定の行動か第二線へ後退する。
4)西軍本隊は前進を図るが砲兵を展開する場所がなく、第二線陣地で戦況は膠着する。
5)戦況を変えたのは西軍右翼部隊。北方へと迂回し、第二線陣地を側面から攻撃し、東軍を崩壊させ第三線まで後退させる。
6)東軍は第三線で抵抗を試みるが、今度は砲兵を展開する土地があった西軍が大掛かりな砲撃を加えついに母成峠を突破する。
 
 さて、この展開は史料と照らし合わせてどの程度妥当なのか。同時代の官報とも言うべき太政官日誌第八十七"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787624"に記された母成峠の戦いに関する薩摩藩報告を引用しよう。8月28日に会津で書かれ、9月14日付の日誌に載ったものだ。
 
「第一の砲台は長さ二町余高原の下に沿て築立頻に発砲候故進んで是を乗取打取第二の砲台は夫より十町位先き双方に構え有之故歩銃を諸方に散布して大砲を要所数所に押出し攻掛候処賊徒暫時は烈敷防戦候得共右を回りし長州土州の人数も進来り攻立正面よりは十余挺の大砲を放て散兵諸所より進撃候故賊徒終に大敗にて二ヶ所の砲台を乗取り数十の陣屋に火を放ち焼捨尚進んで第三の台場に攻掛り候処夫より十余町にして第三の台場はボナイ峠の絶頂なり横二町位関門二つ左右竹虎落[もがり]を結て有之候得共攻込に至て賊徒一人も無之逃亡す大砲五挺其外弾薬兵糧分捕す」
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 ざっと目を通しただけで、2つ大きな違いがある。まず第二線の攻撃に際して西軍本隊が大砲を展開する場所がなかったという部分。太政官日誌では「第二の砲台」に対して「大砲を要所数所に押出し」「正面よりは十余挺の大砲を放て」攻撃したことになっている。展開する場所がなかったどころか、10門超の大砲を並べて撃ちまくったことになっているのだ。
 薩摩藩の砲兵隊による報告も太政官日誌と平仄が合っている。薩藩出軍戦状第1"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717"にある一番大砲隊戦状には、第二線陣地について「又々十丁余の先高岳へ砲台諸所築居是以大小砲を眼下に放射し防戦甚敷候付此方一二三番の砲隊諸所へ布並べ砲発暫時の間は実に厳敷砲戦に候」(p230)と記している。また三番砲隊届書にも第二線に対して「一番砲隊並二番砲隊半座三番砲隊其外諸藩よりも大砲有之厳しく攻撃致し小銃隊は横合より押よせ候」(p251)と書かれており、砲兵が第二線陣地を砲撃したことが明確に述べられている。
 復古記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555"にも同じ内容の記録が採録されている。佐土原藩の島津忠寛家記は「一番砲隊、正面の砲台に向て砲発、弾丸悉く敵の砲台に至て破裂し、賊、狼狽、銃隊は、各藩の兵と左右に分れ、烈しく攻撃」(p141)としているし、大垣藩の東山道戦記には「同じく官軍大小砲を打て攻立候処、無程二の塁も乗取り」(p142)と記されており、攻撃には「大小」の火器が使われたことが明記されている。
 なぜネット上で「第二線陣地の前には砲兵を展開する土地がなかった」という説が出回っているのか、史料と照らし合わせた限り説明はつかない。東軍側の史料にも第二線陣地が砲撃を受けにくい場所だったとしているものは見つけられなかったし、西軍側に至ってはどの史料にもそんなことは書かれていない。土佐藩の山内豊範家記に「我砲兵は、専ら小銃を携え」という文言があるものの、その直前には「薩の砲隊進み撃之」(p140)と書かれているので、やはり砲撃できなかった根拠にはならない。
 
 2つ目の違いは第三線陣地での戦いだ。ネット上では東軍がここでもう一度抵抗を試みたことになっているが、史料を見る限り、実際にはこの第三線は抵抗の暇すらなく突破されたとしか思えないのだ。
 例えば薩摩藩十二番隊は薩藩出軍戦状第1でこの第三線について「午鳴(母成)峠絶頂に関門相立堅固に築立候台場にも賊兵足を留め兼其儘遁走」(p216)と書いている。堅固に築き上げた砲台があったにもかかわらず、東軍は足を止めることなく逃げ出したわけだ。一番砲隊も「厳重の砲台築居候得共以前両度の激戦に恐怖いたり候哉」、武器弾薬を置き去りにしたまま「賊一人も不相見得候」(p230-231)としている。
 復古記の山内豊範家記は「母成峠の関門に迫る、賊散乱、一敗地に塗れ、悉く関を棄て走り、又一戦する不能」(p141)と記し、島津忠寛家記は「賊敗走、官軍、勝に乗じ、直にホナリ峠に至る」(p141-142)と第二線突破後の前進が容易であったことを記録している。第二線で合流した右翼部隊もこの容易な突破を体験しており、右翼部隊にいた谷干城遺稿"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991229"にも「久[時衛]隊先進遂に保成の関門に入り賊砲三門を奪う賊此地に厳に関門を設け砲台を築き数多の陣屋を構え頗る防戦の設けありと雖も一敗地に塗れ更に一支も不能」(p146)と書かれている。
 唯一、東軍の抵抗を窺わせる文章が残されているのは、大垣藩の東山道戦記。復古記に載っている文章には「無程二の塁も乗取り、夫より三四の塁、共同しく防戦致し候得共、官軍奮て攻立候間、悉く敗れて逃出し」(p142)とあり、一応第二線以降も「同じく防戦」したとは書かれている。だが大垣藩はそもそも左翼部隊所属であり、中央本隊にはいなかった。全体として見るなら、抵抗はなかったか、あったとしても話にならないレベルの微々たるものだったと考えるのが妥当だろう。
 東軍側の史料は新しい時代のものが多いため信頼度に欠けるが、そこでも第二線突破後の展開が急であったことを窺わせる記述が多い。会津戊辰戦争"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951582"では側面攻撃によって「東軍大に乱る、圭介等敗兵を叱咤し止まり戦うも遂に敵せず」(p164)としており、会津史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763184"も西軍右翼と本隊の連携によって「之を以て守兵塁を棄てて退く、他の堡塁随て潰え」(8/97)と書かれている。
 大鳥自身の書いた幕末実戦史"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900018"には「余又関門の傍に下り敗兵を集め此所にも堅固の胸壁あれば今一防戦と頻りに指揮せる中、何物の所業にや本営の陣屋に火を掛けたり、敗兵なれば敵已に後方に回れりと言い触らし、追々逃去り踏みとまるもの甚だ少なし」(p77)との記述がある。峠付近での防戦の準備が上手く進まなかった様子が窺えるもので、西軍にとっては鎧袖一触だったろう。
 
 この2点以外にも、ネット上の記述と史料の一致しない例があるのだが、長くなったので次回に。
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