母成峠 2

 前回の話では母成峠の「三段構えの陣地」のうち第三線陣地で西軍が背後から襲撃したかどうかを調べた。その際には第三線が母成峠にあることを当然の前提としたが、それは果たして事実なのか。というかそもそも本当に東軍の陣地は三段構えになっていたのか。この点についても調べてみよう。
 
 三段構えの陣を敷いていたという話は前回紹介したwikipediaなどでも触れている。他にもこちら"http://blog.goo.ne.jp/kidouhan/e/6566c9ad2702f01a92d8c55eb9b1ded7"や、こちら"http://books.google.co.jp/books?id=GJlM0vwQnE0C"のp252など、あちこちで一般的に見かける記述と言っていいだろう。ところが一次史料を集めている復古記"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555"を読むと、話はそう簡単には行かない。
 たとえば長州藩の戊巳征戦紀略には、「我兵(中略)石筵に進み、賊の砲台五、六処を奪い、母成嶺に向う」(p139)とある。大垣藩記には「賊徒台場を四ヶ所に設け防戦す」(p141)と書かれているし、東山道戦記も「四ヶ所の塁壁」(p142)とあり、こちらは4ヶ所説だ。
 薩藩出軍戦状(巻1"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717")に載っている各部隊の報告はさらにややこしい。三番砲隊はまず台場を1つ奪った後で「それより母成に台場三ヶ所関門に一ヶ所築居」(p250-251)と記しており、つまり合計で5つの台場の存在を指摘している。もっと凄いのは兵具方一番隊で、そこには実に「ボナリ二十余ヶ所の台場」(巻2"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917732" p180)との記述がある。
 一方、東軍側の陣地に関する説明はどれも非常に似ているため、代表例として七年史"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772821"から引用してみよう。曰く「西北より東南に険谷あり、勝沼と云い、東に出で南に近きを萩岡と云い、中央の高丘を中軍山と称し、皆塁壁あり、北に当り高く聳ゆるを硫黄山と云い、その麓に接するを勝岩と云う」(445/486)。具体的な数字は示していないが、拠点ごとに「塁壁」を築いていた様子が分かる。
 つまり三段構えの陣地とは「3つの砲台(台場)を持つ陣地」という意味ではないと考えられる。複数の砲台を組み合わせて1つの陣地になっているところがあったと考えるべきだろう。実際、母成峠の戦いについて東軍側の布陣を描いた地図"http://saigetudo.blog.fc2.com/blog-entry-23.html"を見ると、平野部の2砲台が第一線、峠の1砲台が第三線で、中間部にある複数の陣地がまとめて第二線というように描かれている。こちらの地図"http://pds2.exblog.jp/pds/1/201205/06/79/e0040579_7401912.gif"も似たようなものだ。
 だとしても、当事者の出している数字がばらばらな状態で「三段構え」と決め付けてしまうのは難しい。やはり関係者による具体的な証言が欲しいところだ。実際に戦った人間が、砲台のまとまりを全体として「三段構えの陣地」と見なしたのであれば、後世の我々がそういう表現を使っても問題はないだろう。誰かそういう人間はいないのか。
 いる。攻撃に当たった西軍側ではっきりとそう述べている人物が。その人物とは、母成峠を攻撃ルートにするよう主張した伊地知正治だ。福島県耶麻郡誌の中に、維新史料云として「八月二十七日参謀伊地知の書状『(中略)二十一日ボナリ峠口より左右中三手に分れて会津口へ攻掛り候処其日三ヶ所の砲台を破り会津領へ一里余侵入』」(p959"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960656/541")という一文が載っているのだ。戦闘の6日後に記した書状でそう書いているのだから、伊地知が東軍の陣地を三段構えと認識していたのは間違いないだろう。
 
 もう一つ、母成峠の戦いにについてしばしば言及されるのが、地元住民による西軍の道案内だ。たとえばこちら"http://books.google.co.jp/books?id=1fU_AwAAQBAJ"では、地元住民が「官軍を『官軍さま』と崇め、母成峠への道案内も進んで引き受けた」と書いている。ネット上にもこちら"http://ley.cocolog-nifty.com/hitorigoto/2013/06/post-3ce1.html"などの例がある。
 最近の本だけではない。1921年出版の防長回天史第6編中"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2169815"には「石筵の土人を嚮導として(中略)間道を進む」(p89)と書かれているし、1917年出版の会津戊辰戦争"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951582"にも「石筵の住人さきに村落を焼かれ深く幕兵を恨むと聞き、村民を諭して嚮導となし」(p164)という文章がある。中でも古いのは1897年出版の会津史"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763184"で、そこにも「石筵の人民さきに我幕兵の為めに村落を焼かるるを仇とするを以て、其村民を諭し二人の猟師をして嚮導となさしめ」(8/97)との文章がある。
 また1926年出版の日本近世史説"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020232"には、母成峠の老農夫から聞いた話として、西軍が「石筵の住民がさきに会津兵の退去に際して、石筵を焼いて国に退いたのを怨んで居ることを知り、村民六名を募って猿岩口・母成口・山葵沢口の三路に、各二人ずつ会津侵入の嚮導となさしめようとした」(p384)と書かれている。だが応じる者がいなかったので、結局は強制的に6人を案内人にしたという。実際に案内が行われたのは事実のように思える。
 だが最後に紹介した農夫の話を除けば、後は全て二次史料だ。そしてこの農夫の話もよく読むとおかしな部分がある。この農夫によれば「山葵沢口[つまり左翼部隊]に向かった(中略)両人が幸に功を奏して第一に進出(中略)母成を守備して居た会津の民兵は、全く背後を襲われることになり」戦わずして敗走したことになる。前に書いた通り、実際には左翼部隊は本格的戦闘には参加していなかったわけで、史実と矛盾した話をこの農夫は主張していることになる。
 リアルタイムに書かれた一次史料には、案内人を使った証拠が見当たらない。特に問題なのが、右翼部隊の案内を石筵の住民が担ったという一連の記録だ。西軍が3手に分かれて攻撃したのは事実だが、その際に石筵を通過したのは中央と左翼の部隊のみ。右翼部隊については、例えば土佐藩の山内豊範家記には「全軍三道に分ち、玉ノ井村を発す(中略)右の間道猿岩口(中略)各藩本軍は、石筵口通り本道に向う」(復古記、p139-140"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555/88")と書かれており、右翼部隊が向かった猿岩口が石筵口とは異なることが分かる。
 実際に右翼部隊に同行した谷干城の遺稿"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991229"にも「玉の井に至る兵三手に分る(中略)猿岩道は即ち昨日戦争せし山入村を通り嶽ヶ山の半原を左りへ小路あり」(p144)と書かれており、上に紹介した地図"http://pds2.exblog.jp/pds/1/201205/06/79/e0040579_7401912.gif"に描かれている通り、西軍の右翼部隊は玉ノ井村で他の部隊と分かれたため石筵を通っていないことは明らかだ。
 結局のところ、地元民による案内についてある程度踏み込んだ話を載せているものとしてはこちらの記事"http://www9.plala.or.jp/omohansha/b0.htm#2"しか見つけられなかった。そこには達沢への間道(左翼部隊)の案内を命じられた石筵住民のうち3人が途中で逃げ出し、2人は逃げ切ったが1人は切られる寸前でかろうじて助かったという話が紹介されている。これが事実なら、少なくとも左翼部隊については石筵住民の案内があったことになる。残念ながらソースが分からない。
 同じ記事の中に、明治2年に石筵の名主が書いた文書から、石筵の住民が土佐藩に徴発され嚮導した事実があったことも書かれている。彼らは会津の猪苗代を通りかかった時、家を焼かれて怒り狂っていた猪苗代の住民に襲われて殺され、死体を埋められたそうだ。こちらはソースがはっきりしているので事実だと思われるが、この殺された住民たちが徴発された理由が母成峠攻めなのかどうかは分からない。
 結論として、地元民による道案内については明確な結論は出せなかった。ただ普通に考えて西国出身の軍隊が会津を攻めるに際して案内人を調達しようとするのは不思議ではない。特に間道を通った左右の部隊は、例えば薩摩藩四番隊が「深山の道もなき所を破り天狗相撲取峰といえる二里余を越る」(薩藩出軍戦状巻1"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717" p52)と記しているように、案内人なしでは通れそうにない道を通ったようだ。一次史料に記録が残っていないのは、案内人を雇うのが当たり前すぎて一々書き記さなかったと見られる。最低でも左翼部隊には石筵村から案内は出ただろう。右翼については石筵ではなく、例えば玉ノ井や山入村あたりから案内人を調達したとも考えられる。
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