真っ先に紹介されているのが「薩藩慶応出軍戦状」という本。復古記第13冊p138以降"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1148555/88"にも「慶応出軍戦状」からの引用が記されているが、この史料についてはそのものずばり「薩摩出軍戦状」の巻1"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917717"と巻2"
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917732"もネット閲覧できる。というかこれを見れば復古記に載っているのが出軍戦状にある史料の一部に過ぎないことが分かる。
まず一番小隊戦状。「[8月]廿一日会領境ぼなりと申険阻成台場の堅固を攻抜き手術にて当隊は無名の間道を経て突出候得共最早正面の味方に被打散逃げ行残兵を雉ヶ屋と申所まで追討」(巻1、p6)というシンプルな記述しかない。二番隊も「廿一日四字出立石筵より2道に分る一二三四五六小隊は左の方大山樵道の難所を踏分て吠鳴(母成)峠背面に出つ本道の賊破れて逃走するに逢う追討して大原村に一泊す」(p17)と短い記録のみ。いずれも彼らが東軍背後に出たときには既に「正面の味方」の攻撃で敵が逃亡に移っていたとしている。
以降も基本は同じだ。三番隊は「廿一日未明玉ノ井を発しぼない本道を防御する賊の後を取切るの策にて各隊一同石筵と云村より無名の間道数里の山径を経賊の背後へ出しが既に本道敗れて少く落行兵に出合い追撃す」(p24)。四番隊の記録(p52)は復古記に採用されているが、やはり敵背後に到着した時には「関門已に破て遁兵を追撃」となっており、これまでの記録と同じだ。
五番隊の記録はいささか曖昧で、東軍は「暫時は厳敷致防戦候得共無程及敗走候付」と書かれているが、左翼部隊がどう行動したかについては明確な記述がない。ただ戦功として母成峠の背後にある「達沢村近辺の落兵二三十人余討取候」(p112)と書かれている点からは、落伍兵の掃討くらいしか仕事がなかった様子が窺え、これまでの記録との矛盾はない。
薩摩藩で左翼部隊に所属した最後の小隊である六番隊はもっと明確だ。「程なく戦争相始り当隊は早く[東軍の]後に回らんと思えども中々険阻にて急に越す事あたわず様々にして越え候処正面より掛りたる官軍早悉く打破り」(p130)とあるように、左翼部隊が到着した頃には正面の攻撃で「ぼなりの賊徒最早追討被致候」(同)という状態だった。
薩摩藩の伊集院兼寛手記も同じような記録を残している。左翼部隊は「石筵より天狗相撲取山の嶮を越え、保内[母成]峠の後一里計の敵後へ出、正面と背後を撃の策」(復古記、p142)を実行するため山中に入ったが、「已にして保内の賊、漸く守御の術を失し、午後五字頃、達沢村に到れば、賊兵已に敗走するに逢う」(同)羽目になった。
左翼部隊に同じく所属していた大垣藩の記録のうち、大垣藩記には残念ながら左翼部隊の行動は書かれていないようだ(復古記、p141)。だが東山道戦記では左翼部隊の行動について「道迚は少しも無之、只山角樹木の中を辛うじて渡り合、漸く進み行候処、最早本道は打破り候て、戦畢り候」(復古記、p143)とある。薩摩藩の一連の記録と平仄が合っている。
以上の記録を見ても西軍の左翼部隊が戦闘本番には間に合わず、峠突破後に逃げてきた敗残兵を掃討するくらいしか仕事がなかったことは明らかだろう。少なくとも攻撃側自身はそう認識していた。では防御側である東軍の目には、第三線陣地(母成峠)を巡る争いはどう映っていたのだろうか。
復古記に紹介されている会津藩の若松記、二本松藩の丹羽長裕家記は、どちらも記述が大雑把すぎる点はあるが、敵の迂回について言及していない点は確かだ(復古記、p143)。唯一、伝習隊の渡辺某が記したとされる「義団録」の中に「敵の伏兵、山後の糸沢村[ママ]より起る、軍中大に周章す」「敵後より攻ること急なり、吾軍不利にして、遂に大敗軍に及ぶ」(同)といった文章が見られるが、村の名前が間違っている(母成峠の背後にあったのは達沢村)など疑問点もある。
北原雅長の書いた七年史"
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772821"には、第二線陣地である中軍山を巡る争いについて「西兵間道を潜行して背後の丘上に出づ」(446/486)という記述はあるが、その後は曖昧だ。確かに東軍が壊走した後に「西兵又背後より撃つこと雨の如し」(同)という文章はあるのだが、背後を衝かれて第三線が崩壊したという意味なのか、東軍壊走後に背後に出てきた西軍に撃たれたという意味なのかは不明。
大鳥圭介の回想録を出版した「幕末実戦史」には、彼が関門近くで防戦の指揮を取っている時に「何物の所業にや本営の陣屋に火を掛けたり、敗兵なれば敵已に後方に回れりと言い触らし、追々逃去り踏みとまるもの甚だ少し」(p77"
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900018/46")とある。火をかけられたという話は義団録にもあるので事実だろうが、それが誰の手によるものかについて大鳥は何も述べていない。
もう1つ、この戦いに加わった二本松少年兵、水野進の記録"
http://nihonsi.web.fc2.com/warfare/nihonmatu/nihonmatu.htm"もある。妙に詳しいその記録によれば「此の時に当り川村純義氏は源九郎義経の古智に倣い手兵八十余人を従え石筵村の農民を嚮導とし山を越え谷を渉り万難を排して萩岡の背後に出て防御陣地に突貫す不意を食いし味方の軍勢周章狼狽措く所を知らず一支えもなく敗走せり」(p10)となるのだが、上で散々「間に合わなかった」と書いている薩摩藩四番隊の川村が戦闘に参加したと書いているのは、私が探した中ではこれくらいしかない。
東軍側の史料は公表された時期が遅いものが多い。水野の本は戊辰戦争から50年近く後に出版されているし、大鳥の本は40年以上、七年史でも35年以上後だ。加えて東軍側は雪崩を打って敗走するという混乱状態にあったため、当事者がどこまで状況を正確に把握できていたか怪しい部分がある。
一方、西軍側は当事者が一致して左翼部隊の本戦への遅れを指摘している。それを否定できるだけの明白な反証は、西軍側はもとより東軍側の史料にも見当たらないように思える。それに東軍側も全員が峠で背後から攻撃されたと述べているわけではない、というか明確にそう述べているのは水野くらいで、後は義団録や七年史に曖昧な記録が出てくるくらいだ。
以上を踏まえるのなら、母成峠の戦いで第三線陣地に西軍が背後から襲いかかったとするwikipediaの記述は信頼できないと見ていいだろう。もう1つのサイトが主張するように「勝手に後退を始めた連中は自分たちが追撃されないように、自焼した」と考える方が妥当。第三線陣地は迂回攻撃でなく正面からの攻撃であっさり陥落したと考えた方がよさそうだ。
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