ルイ=フェルディナント

 イエナの前哨戦となったザールフェルトの戦いで戦死したプロイセンのルイ=フェルディナント親王"http://de.wikipedia.org/wiki/Louis_Ferdinand_von_Preu%C3%9Fen_(1772%E2%80%931806)"。漫画ではルートヴィヒ親王と書かれ、ブクスヘヴデンなみにアッサリと殺されていたが、すぐさよならするにはいささか惜しい人材なので少し言及しておこう。
 まず彼の名前だが、どうやら同時代のドイツ人も「ルートヴィヒ」ではなく「ルイ」とフランス風に呼んでいたようだ。1807年に出版された彼の逸話を集めた本の題名も、Anekdoten und Charakterzüge aus dem Leben des Prinzen Louis Ferdinand von Preussen"http://books.google.co.jp/books?id=jklSAAAAcAAJ"となっている。同年5月16日付の新聞でも彼の名前の表記はPrinzen Louisだ(Jenaische allgemeine Literatur-Zeitung"http://books.google.co.jp/books?id=R40FAAAAQAAJ" Zweiter Band. p299)。
 1808年出版のThe Critical Review"http://books.google.co.jp/books?id=gKg2AQAAMAAJ"には、上に紹介した彼の逸話本に関するレビューが掲載されている(p515-522)。それによるとルイ=フェルディナントは「酒を飲みすぎる傾向があり、彼のような立場の多くの人間同様、恋愛に関しては放縦であった」(p517)そうだ。実際ドイツ語wikipediaに載っているだけで、彼は3人の女性に計5人の非嫡出子を生ませている。
 フランス革命戦争が始まる前、ルイ=フェルディナントはある士官の妻に横恋慕したそうだ。不幸な結婚をしていた彼女だが、それでも彼女は彼の申し出を断り、そのうえで「もし私が乙女かあるいは寡婦であったなら」彼に愛情を伝えることができたのにと述べた。ルイ=フェルディナントはいったんは諦め、彼女の下を去った。
 やがてフランスとの戦争が始まり、彼もその女性の夫も戦場に向かった。ある日の小競り合いで夫である士官は部下とともに突出しすぎ、気づかぬうちに危険な状態に陥った。それを見たルイ=フェルディナントは、一瞬だけ彼女の「私が人の妻でなければ」という言葉を思い出したが、すぐに自分の情欲のため彼のみならずその部下まで犠牲にするのは拙いと判断。士官のところへ飛び出し、後退するよう命じたのだそうだ。
 「神は新たなウリヤを欲しないに違いない!」(ダビデ王が横恋慕したバト・シェバの夫で、ダビデの命により戦場で見捨てられ殺された"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%90")というのがこの時のルイ=フェルディナントの気持ちだったそうで、ドイツ語本の作者はこれを彼が示した倫理観の一例としている。英語のレビューアーは、この倫理観moralityという言葉を皮肉交じりにイタリックにしているが、確かにダビデ王よりは倫理的なんだろう。
 
 もう少しまともな話として、彼の軍人としての活動も紹介しておこう。ジョミニのフランス革命戦争史の本にも、いくつかの場面で彼の名が出てくる。まずは第3巻"http://books.google.co.jp/books?id=hFEUAAAAYAAJ"、1793年の連合軍によるマインツ攻囲。5月30日にフランス軍が行った出撃の目的地にルイ=フェルディナントの部隊もいたと書かれている(p221)が、ここでは単に名前が出てきただけにとどまっている。
 次は7月16日に連合軍がフランス軍の砦にある堡塁を攻撃する話。ここではルイ=フェルディナント自身が3個大隊を率いて攻撃を先導し、砦の堡塁を奪って破壊するのに成功した。激しい戦闘によって負傷したものの、彼はこの際に「真に騎士的な真価を示した」という(p237-238)。
 この時の話はドイツ語の逸話本にも書かれているようで、英語レビューにもその中身が詳しく紹介されている。ルイ=フェルディナントが攻撃の指揮を執ると申し出たことに対して国王は躊躇ったが、彼は攻撃を担当するマンシュタイン擲弾兵に向かって「私は決して諸君を見放さない。諸君も私をよく知っているだろう。私と同じ事をし、そして私を後方に残すな。自信を持って私について来い。私が先頭を進む」と演説をかましたそうだ。
 かくして午後10時、雨雲のせいで真っ暗になった戦場を彼らは進み、夜闇にまぎれて堡塁に銃剣で襲い掛かり敵を撃退。反撃にでたフランス軍が「サ・イラ」を歌いながら接近してきたのに対し、ルイ=フェルディナントは兵士たちを集めて"Non, ça n'ira pas!"(いいや、お前らを進ませない!)と叫んで反撃に転じたという。いささか面白すぎるが、そういう話も伝えられているようだ(p521-522)。
 他にもジョミニ本の第6巻"http://books.google.com/books?id=rp8FAAAAQAAJ"にルイ=フェルディナントの名が出てくる。1794年9月に行われた戦闘で彼の率いる旅団が騎兵の協力を得てフランス軍の戦線を突破したという話だ。ただ彼自身の行動についてはほとんど言及はない。そしてこの翌年にプロイセンはフランスと講和を結んでしまうため、彼のフランス革命戦争での活躍もここで終わる。次に戦場に登場するのは彼が戦死するときだ。
 
 戦場以外のエピソードで目立つのは音楽関係だろう。実は彼は当時有名な作曲家の1人であり、いくつかの曲が残されている。演奏時間の長い本格的な曲もあり、Youtubeでも聴くことが可能だ("http://www.youtube.com/watch?v=RVum3euSLV4"など)。また、ピアニストとしても知られていたという。
 彼は同時代人であるベートーヴェンと接点があった。彼がある時、知り合いの邸宅を訪ねた際に、ベートーヴェンが新しく作曲したばかりの交響曲「英雄」が演じられた。ルイ=フェルディナントは「時とともに増す注意力をもってそれを聴いた」。そして演奏が終わったとき、彼はすぐ再演を求めたという。この交響曲は当時としては新しく、独創的で、非常に長かったためあまり歓迎されなかったそうだが、ルイ=フェルディナントは高く評価していたようだ("http://books.google.co.jp/books?id=Dbo0AAAAQBAJ"のp26、元ネタは"http://books.google.co.jp/books?id=-uMqAAAAYAAJ"のp28)。
 ルイ=フェルディナントとベートーヴェン自身の交流の話もある。ベートーヴェンとルイが同時にある集まりに招かれた時、食事の用意は大貴族の分しか用意されていなかった。はぶられたベートーヴェンは激怒し、帽子を手にとってその席から出て行った。その数日後、今度はルイ=フェルディナントが招待者となった会で、ベートーヴェンはルイの隣に席を用意されたという("http://books.google.co.jp/books?id=Dbo0AAAAQBAJ" p32)。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番はルイ=フェルディナントに捧げられている"http://en.wikipedia.org/wiki/File:Beethoven_piano_concerto_3_(page_de_garde)_..png"。
 ルイ=フェルディナントは音楽家に対してのみ寛大だったわけではない。ミンデンで貧窮にあえぐ亡命貴族と出会った際に、彼は貴族に対して近くの家を指差しながら「(フランスにある)あなたの家はあのくらいの大きさですか?」と質問した。貴族がそうだと答えるとルイ=フェルディナントはすぐにその家を買い取って貴族にプレゼントしたという("http://books.google.co.jp/books?id=gKg2AQAAMAAJ" p518-519)。金持ちの気まぐれではあるが、なかなか豪気な話でもある。
 
 革命に対して彼が反感を抱いていたのは事実のようだ。スタール夫人によれば、アンギャン公の処刑を彼女に知らせに来た時、ルイ=フェルディナントの顔色には「復讐かさもなくば死」の予兆が表れていたんだそうだ("http://books.google.co.jp/books?id=DYkqAAAAYAAJ" p433)。それが「死」に傾いたのは、逸話本によるとザールフェルトの戦い(1806年10月10日)の少し前である10月7日のことだった。
 この日、彼は上官であるホーエンローエ公と2時間にわたって会談した。彼の友人であり、音楽家であったドゥセックによると、会談後の彼は別人に見えたという。友人の問いかけに対し、ルイ=フェルディナントは「状況は悪い。プロイセン軍は絶望的な状況にある。負けたも同然だ」と答えた。そして「敗北を生き延びるつもりはない! 私は行動する!」と話し、その言葉通りに戦死した(p522)。
 本当にそんなことを彼が言ったのかどうかは分からないが、ドイツでは彼の戦死を「英雄的な死」として扱おうとする動きがあったのは確かだろう。こちらの絵"http://en.wikipedia.org/wiki/File:Heldentod_der_Prinzen_Louis_Ferdinand_bei_Saalfeld.jpg"では文字通り"Heldentod"としている。
 でも英語本のレビューアーは「愛国者も英雄も決して絶望してはならない」(p522)と述べ、ルイ=フェルディナントの無謀な死を批判している。「無謀さを英雄的行為として通用させてはならない」(p517)と、自分に酔っている人間に冷静なダメ出しをしているあたりは、いかにも英国人っぽい見解だ。
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コメント

No title

JIN
はじめまして。

最新の単行本7巻に出てましたが、「ルートヴィヒ親王」の描き方が実に微妙でしたね。

漫画ではルイーゼが「プロイセン最高の軍人」と呼んでいますが、この辺りはむしろ皮肉を感じるというか。

ウィキペディアでも「生きていれば」という批評がされているところもツッコミが入ってましたが。

No title

JIN
あとリンクもさせていただきましたので、どうかよろしくお願いいたします。

No title

desaixjp
はじめまして。
ルイ=フェルディナントの指揮官としての能力については判断は難しいです。せいぜい前衛部隊の指揮官クラスしか経験していないのですから、どこまで実力があったのかは分かりません。
女性と音楽に関して有能だったのは事実でしょうけど。
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