デルロン軍団の彷徨 下

 承前。前回紹介した戦役中の記録以外に対し、de Witは厳しい評価をしている"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/derlon.2.pdf"。例えばネイの幕僚だったエイメについては「信頼できない」(p5)と指摘。第1軍団の砲兵指揮官であったド=サールについても「信頼に値する目撃者ではない」(p6)と述べ、スールトの部下だったボーデュに対しては「まず第一にボーデュの[説明する]時系列は不可能」(p7)と切り捨てている。伝令候補の1人であるフォルバン=ジャンソンに対しても「なぜフォルバン=ジャンソンによる出来事の説明がこれほど不可解なのか理解するのは難しい」と容赦ない。
 そのうえで彼はまずデルロン軍団がブリュッセル街道を離れ、リニー方面に向かった理由について見解を述べている。それは「合理的な推論の問題であり何らミステリアスなものではない」というのがde Witの指摘。消去法によって選び出された犯人は、デルロン自身だ。
 まずネイ自身が第1軍団を送り出すことはあり得ない。彼が受けていた命令はまずなにより目の前の連合軍を押し戻すこと。そのために使える兵力は手元に置いておくのが当然の判断だろう。次にナポレオンも容疑者からは除外される。そもそも自分で呼んだ部隊であれば、その登場を敵と間違えて慌てることはあり得ないし、またナポレオンが呼び寄せたのなら後になってデルロン軍団がキャトル=ブラへ戻ることもあり得ない。
 デルロン自身は「伝令」が鉛筆書きの命令を伝え、それに従ってデュリュットが勝手に前衛部隊をリニーに差し向けたと主張している(p3-4)。だがデュリュット自身は伝令との接触については何も述べていない。彼によれば、第1軍団がキャトル=ブラへと進軍中に「皇帝がデルロン伯に、プロイセン軍の左翼[ママ]を攻撃しブリーを奪うことを試みるよう命じた」(p5)と述べている。de Witはこれについて、デルロンが彼に語った言葉をなぞったものだろうと推察している。
 デュリュットは1827年に死去しており、デルロンが「伝令」の正体として名を上げているラベドワイエールはワーテルロー戦役後に射殺された。デルロンが1829年に書いた手紙の中で責任を押し付けている両名は、どちらも「死人に口なし」状態だったのだ(p17)。そもそもデュリュットにもラベドワイエールにも直接第1軍団の進路を捻じ曲げる権限はない。通常の軍における命令体系を考えるなら、それが出来るのはデルロンとその上司たち、即ちネイかナポレオンに限られる。ネイでもナポレオンでもないのならデルロンしかない、というのがde Witの結論だ。
 ではなぜデルロンはリニーへ向かう決断をしたのか。ナポレオンが書いた証拠が一切ない「鉛筆書きの命令」ではなく、記録に残っている午後3時15分の命令書を目にしたことが理由ではないかとde Witは見ている。この命令を持って同時刻にフォルバン=ジャンソンが、さらに3時半にはローラン大佐が帝国司令部を出発し、ネイの下に向かった("http://www.waterloo-campaign.nl/june16/ligny.3.pdf" p4)。このどちらかの伝令がブリュッセル街道上でデルロンと接触。命令文を見た彼はキャトル=ブラへ向かえとの命令に反してでもリニーに向かう必要があると判断して進路を切り替えた。
 混乱の原因になったのは、3時15分の命令に具体的にどのようなルートでリニーへ向かうべきかが書かれていなかったことだ。ナポレオンは朝方及び午後2時の命令において既にキャトル=ブラ奪取後にリニーの戦場へ向かうよう命令を出していた。だから3時15分の命令でそれを繰り返す必要はなかった。だがデルロンがナポレオンの命令を見たのはこれが最初。彼に分かったのはブリー高地とサン=タマンという地名だけであり、だからそこへ真っ直ぐ向かった。しかしそれはナポレオンが命じていた味方の進軍ルートではなく、かくして予想しない場所からのデルロン軍団の登場が混乱を巻き起こした。
 
 ではせっかくリニー方面へ進んだデルロン軍団をキャトル=ブラへ戻す決断をしたのは誰か。残された史料全てに目を通すと、そこには混乱しかない。デルロンとデュリュットはネイが呼び戻したとしており、ネイはフーシェへの手紙"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/source/waterloo_ney.html"でデルロン軍団がナポレオンによって送り返されたと述べている。エイメもネイと同じ意見だ(p11-12)。だがこれらの記録は全て戦役後に書かれたもの。前にも言った通り正確さには疑問符がつく。
 鍵になるのは16日に書かれたネイの報告書だ、とde Witは指摘する。ネイはこの報告で、デルロンがキャトル=ブラへ戻ってきたことを「致命的」と表現している。もし自分で呼び戻したのであれば、ブリュッセル街道から外れたことはともかく、戻ってきたこと自体を非難するのはあり得ないだろう。またナポレオン自身が送り返したことも考えにくい。
 もっともありそうなシナリオは何か。デルロンはリニーへ向かう決断をした際に参謀長であるデルカンブルをネイの下に送り出していたが、そのデルカンブルがキャトル=ブラの戦況に関する情報を携えてデルロンの所に戻ってきたのが大きなきっかけになった。ネイは当然、デルカンブルにキャトル=ブラの厳しい状況を伝えていたが、一方リニーでデルロンが重要な役割を果たすことも想定していただろう。ネイはあくまで情報を伝えるにとどめ、どうするかの選択はデルロンに任せたのだ、とde Witは見ている(p13)。
 デルロンは難しい決断を迫られた。結局、彼は妥協策を選び、最も前進していたデュリュットと騎兵の大半をリニーの戦場近くに残し、残りの部隊をキャトル=ブラへと引き揚げさせた。残ったデュリュットらも、その狙いはプロイセン軍右翼がナポレオンとネイの間を遮断することを恐れたための対応であり、積極的にリニーで攻撃にでることはなかった。かくしてデルロン軍団は完全に遊軍となり、この日の戦闘において何の役にも立たないことが決まった。
 
 だが「進むべきか戻るべきか」とデルロンが悩んでいた時間においては、まだ第1軍団が遊軍になることが決まっていたわけではない。ナポレオンが正体不明の部隊がデルロン軍団であると知ったのは午後6時半頃だが、その時からでも彼らをプロイセン軍の右翼に投入し、午後8時に行われたリニーへの帝国親衛隊による攻撃と歩調を合わせることは可能だっただろう。ナポレオンがデルロン軍団の正体を知った後で、彼を使おうとせずその存在を無視したようにプロイセン軍との戦いを続けた理由は分からない。
 ネイについてはあまり批判されるところはない。敢えて言えばキャトル=ブラで戦っている間に自らの置かれた状況をナポレオンへ報告していなかったことが問題だろう。キャトル=ブラ奪取後にプロイセン軍の背後へ向かえという命令が実現不可能だと分かった時点で早急にその事実を伝えておけば、ナポレオンのその後の対応も変わっていた可能性がある。
 そしてデルロンだが、自らの判断でリニーへと進路を変えたこと自体は(結果論だが)悪くなかった。またそのことをネイに伝えたのもいい。問題は、なぜ同様にナポレオンへと連絡しなかったのかだ。何も言わずに現れた部隊を見てリニーのフランス軍は敵が来たと思い混乱したのである。組織を動かすうえで報連相が大切だとはよく言われることだが、デルロンは大事なときに肝心な報告を忘れてしまった。最も致命的だったのは、実はこのコミュニケーション不足だったのかもしれない。
 
 マレンゴの戦いで砲声へ向かったと言われているドゼーは、実は自らの判断を一切せずボナパルトの命令に従順に従っていただけだった"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/rivalta.html"。それでも結果が成功だったため、彼は高く評価された。同じように命令に従ったグルーシーは結果が失敗だったため批判を浴びまくった。そして本当は自主的な判断をしたデルロンは、結果が失敗に終わったため自分の判断を他人に押し付けて非難をある程度免れた。三者三様の結果は、世の中が実に不条理であることをよく示している。
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