デルロン軍団の彷徨 上

 以前、こちら"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/aides.html"で1815年6月16日のデルロン軍団を巡る話を取り上げたことがある。この時は「敢えて最も些細な問題」として、デルロン軍団と遭遇した伝令の正体について話をしたが、本来の問題は「キャトル=ブラへ行軍するはずだったデルロン軍団がなぜリニー方面へ進路を変え、そしてまた元へ戻ることになったのか」だ。このあたりの理由については本ごとに書かれている内容が違ったりするのが当たり前。読めば読むほど何が史実か分からなくなってくるほどだ。
 で、そういう疑問をワーテルロー戦役全般について感じた結果、いったん二次史料である各種のワーテルロー本を放り出して一次史料をかき集めることから始めた人もいた。Pierre de Witはそうやって調べた史料とそれに基づく自分の知見をThe campaign of 1815"http://www.waterloo-campaign.nl/"というサイトにまとめている。もちろん、デルロン軍団の彷徨も分析対象の1つ。彼の結論はとても興味深いものなので、今回はそれを紹介してみよう。
 
 まずデルロン軍団の具体的な行動についてはこちら"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/derlon.1.pdf"。それによるとデルロン軍団の最前列にいたデュリュット師団は、時々書かれているようなローマ街道(google mapにおけるクロンヌ通りとシャッサール通り)で右折したのではなく、それより北方のシャペル通りのところを右折したと思われる。彼らはそのままヴィレ=ペルワン北東まで進み、そこでリニーにいたヴァンダンム軍団に発見されたのだそうだ。
 またデルロン軍団の全てがブリュッセル街道から離れたわけでもない。少なくとも最後尾にいたキオーの師団はこの街道上に最後まで留まっていた。右折したのは4個師団中3個。全部が曲がりきるより前にデルロン軍団は右折しての進軍を止め、結局はUターンを決断している。
 時系列で行くなら、デルロン軍団が伝令と出会ったのが午後4時半から5時頃。ネイがその事実を伝令及びデルロンの参謀長であったデルカンブルから知らされたのが午後5時から5時半にかけてであり、デルカンブルがネイの下を離れたのは5時半から6時、そしてデルロンの下に帰り着いたのが6時半頃だとde Witは見ている。そしてデルロンがUターンを始めたのが午後7時半から8時の間。結果としてデルロンは遊兵と化し、フランス軍は長蛇を逸した。
 
 なぜそうなったのか、その理由に関する考察はこちら"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/derlon.2.pdf"にある。一体誰の権限で第1軍団(デルロン)は右翼へと舵を切り後に左翼へ戻ってくることになったのか。de Witはまず様々な関連史料を一つ一つ取り上げ、その内容や妥当性について検討している。詳細な分析については上記のpdfを読んでもらうとして、以下では重要な史料のみを紹介しよう。即ち後の時代に書かれた手紙や回想録ではなく、ワーテルロー戦役の最中に書かれた報告や命令文を。
 まずは16日の朝、ナポレオンがまだシャルルロワにいてキャトル=ブラに敵がいるとの情報を受けた時に参謀長スールトからネイに宛てて書かれた命令。時刻は午前10時頃のものだ。
 
「レイユ及びデルロン伯、及びあなたのところへ合流すべく現在出発しているヴァルミー伯の軍団を集めてください。これらの戦力があれば、遭遇するあらゆる[敵]部隊と戦い、壊滅させられるでしょう。ブリュッヒャーは昨日ナミュールにおり、彼がキャトル=ブラに兵を動かした可能性は低いでしょう。従ってあなたはブリュッセルから来る敵だけを相手にすることになります」
"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/frhfdkw.pdf" p8
 
 この時点でこの日のネイの目標がキャトル=ブラにあることがナポレオンによって定められている。次にリニーの戦いが始まる前、午後2時に書かれた命令では、プロイセン軍がソンブルフとブリー間に集まっていることを指摘し、2時半から攻撃を行うつもりだとした上で、スールトはナポレオンの計画について以下のように述べている。
 
「陛下の意図はあなたもまた正面の敵を攻撃し、彼らを激しく押した後で、私がここで述べた[敵]部隊を包囲するのに貢献すべく戻ってくることにあります。もしこの部隊[プロイセン軍]が先に打ち破られたなら、その時は陛下があなたの作戦を促進するためそちらの方角へ機動します」
"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/ligny.1.pdf" p1
 
 実際に戦闘が始まった後の午後3時15分、ナポレオンはスールトを通じてより切迫感のある命令をネイへと送っている。
 
「敵[プロイセン軍]右翼を包囲しその背後を叩ける地点へ向けて機動するようあなたに伝えることを、陛下から承りました。あなたが活発に行動すれば敵軍は敗北します。フランスの運命はあなたの手の内にあります。従って皇帝が命じたように動くことを躊躇わず、おそらく決定的になるであろう勝利を争うためブリー高地とサン=タマンへ向かってください」
"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/ligny.3.pdf" p4
 
 そして翌日、ナポレオンは午前8時の命令においてネイが部隊をきちんとまとめて運用しなかったから敗北したのだと批判したうえで、以下のように述べている。
 
「もしデルロン及びレイユ伯の軍団が一緒にいたのなら、あなたを攻撃にきた英国軍部隊が生き延びることはできなかったでしょう。もしデルロン伯が皇帝の命じたようにサン=タマンへの移動を実行していれば、プロイセン軍は完全に破壊され我々はおそらく3万人の捕虜を得たでしょう」
"http://www.waterloo-campaign.nl/june17/napoleon.pdf" p1
 
 さらに同日午前9時から10時にかけ、スールトはパリのダヴー宛てに送った文章でも以下のように述べている。
 
「デルロン伯は間違った方角へ進みました。もしかれが皇帝が指示した移動命令を実行していれば、プロイセン軍は完全に敗れていたでしょう」
p3
 
 以上に加え、16日午後10時にネイがスールトに宛ててしるしたキャトル=ブラの戦闘報告にも、デルロン軍団への言及がある。
 
「キャトル=ブラの陣地にいる英国軍に対し私が振り向けた攻撃は間違いなく最も激しいものでした。デルロン伯側の誤解により私は勝利への希望を奪われました。なぜならレイユ将軍の第5及び第9師団が敵を打ち倒そうとした時に第1軍団は陛下の左翼を支援するためサン=タマンへと行軍し、そして何より致命的だったのが、軍団は私に合流するべく後退したため誰の役にもたたなくなったことです」
"http://www.waterloo-campaign.nl/june16/qb.8.pdf" p1
 
 ここまでが戦役の最中に書かれたことがはっきりしている史料だ。デルロン軍団の行動に関するその他の史料は、実はいずれももっと後になって登場してきたもの。戦役の結果やそれを巡る議論が後知恵で分かってしまうようになってから書かれた文章なのである。そうした雑音を排し、よりリアルタイム性の高い史料だけ見ると何が分かるのか。長くなったので以下次回。
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