ハントシュースハイムの実態

 前回までBourdeauの記述を参考にハントシュースハイムの戦い(ハイデルベルクの戦闘)について話してきたが、フランス側の言い分だけではバランスも欠くだろう。という訳でÖsterreichische Militärische Zeitschriftの記事を使いながらオーストリア側の記述とも照らし合わせておこう。
 
 まずBourdeauは23日の戦闘でネッカー右岸のデュフール師団が南北をつなぐ「山沿い街道」に位置するドッセンハイム、シュリースハイムを奪い、さらに「クォスダノヴィッチの右翼をノイエンハイムから排除した」("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121757g" p19)としている。結果としてデュフール師団の最前線にいたデュジラ旅団は日没時点でドッセンハイム、シュリースハイム、ノイエンハイムをそれぞれ占拠していたことになる。
 Bourdeauが論拠としているのはデュフールの覚書だという。さらに彼はデュジラが「引き続きシュリースハイムとドッセンハイムを保持し」(p22)、そして翌朝7時にはハントシュースハイム正面への攻撃を始めたと書いている。要するにネッカー北岸はハントシュースハイム以外、ほぼ全てフランス軍の手に落ちていたような書きぶりなのだ。
 だが一方でBourdeauは23日から24日にかけての夜間にオーストリア軍が「ハントシュースハイム―ノイエンハイムの正面を保持した」とも書いている。前日のうちにフランス軍が奪取したはずのノイエンハイムが、なぜかこの時点ではオーストリア軍戦線の背後に戻っている。一体どういうことなのか。
 SchelsのDie Operazionen am Rheine vom 8 bis 24 September 1795; mit dem Treffen bei Handschuhsheim.("http://books.google.co.jp/books?id=SfCnF5Hb98gC" p107-)に目を向けると、Bourdeauの本にはない話が登場してくる。まずそもそもノイエンハイムについてだが、クォスダノヴィッチの右翼がそこまで戦線を延ばしていたという話は載っているが、フランス軍に奪われたという記述はない。またシュリースハイムとドッセンハイムについては一度は奪われたものの、夜間に奪回するのに成功しているとも書かれている(p140)。かなり違う話だ。
 どちらが正しいのか。少なくとも24日朝の段階でノイエンハイムがオーストリア側の手の内にあったことは両者とも認めている。またノイエンハイムの場所はハントシュースハイムの東側にあり、西側から接近していたフランス軍がハントシュースハイムを奪ってもいないのにノイエンハイムを奪取したとも考えがたい。デュフールの覚書が間違えていた可能性の方が高いと思う。
 シュリースハイムとドッセンハイム(ハントシュースハイム北方にある)が一度はフランス軍の手に落ちた点にも疑いはない。問題はオーストリア軍がそこを夜間に奪い返したのが事実かどうかだ。Schelsの文章を見ると24日の戦闘においてデュフールは2つの縦隊でハントシュースハイムを攻撃しているのだが、うち左翼は「ドッセンハイムから」(p145)攻撃を仕掛けている。夜間のうちにクォスダノヴィッチがこの村を奪い返していたのなら、まずそれを排除する必要があるはず。こちらについてはBourdeauの言い分の方が正しいんじゃなかろうか。
 
 ネッカー左岸の戦闘についてはSchelsの説明が今一つよく分からない。彼によればフランス軍は4つの縦隊を組んで前進したことになっているが、各縦隊はアンベール師団によって構成されていたという。つまりランベール旅団についての言及がないのだ。また騎兵のみで構成されている3番目の縦隊についてだが、Schelsの記述を信じるなら基本的に第2縦隊(ベルトラン旅団)と同じ場所を移動しているようにしか読めない。どういうことだろうか。
 Bourdeauは左岸の戦闘についてはろくに言及していないので彼の記述は参考にならない。それでもSchelsの文章を読む限り、どうも左岸のフランス軍は4個縦隊というより「3個旅団+前衛部隊」という部隊構成で移動したのではないかと考える方が筋が通る。前衛騎兵は3個旅団のうち中央に当たるベルトラン旅団の前衛としてプランクシュタットからエッペルハイムへ前進し、左翼のダヴー旅団はヴィブリンゲンに、そして右翼のランベール旅団がヴァルドルフへ進んだように思われる(p147-149)。
 この方面では準備不足のため戦闘開始が遅れた、というのがBourdeauの説明だ。そしてSchelsの文章も、明言はしていないが、それを裏付けているように見える。とにかく左岸の戦闘は前哨線を巡る小競り合いばかりだったようにしか思えないのだ。何しろ「前哨線指揮官のダニエル大佐」(p148)が軍事国境騎兵1/2大隊と胸甲騎兵1/2大隊というかなり少ない兵力でフランス軍の攻撃を2回も退けている。フランス軍側が準備不足のまま攻撃を仕掛けたことが窺える状態だ。
 さらに3度目の騎兵攻撃を連合軍が砲撃によって撃退している時も、フランス軍歩兵は遠方から砲撃を浴びせるのみだったという。まったく本格的な戦いになっていないことは明白だ。そしてBourdeauの記述を信じるならおそらくこの時までに右岸の敗勢が明白になっていたのだろう。最終的にフレーリヒ旅団がヴィブリンゲンを攻撃するとフランス軍はあっさりそこを明け渡している。どちらを見ても重要な戦いは右岸で行われたのであり、左岸は付け足しにすぎなかったことは間違いないようだ。
 
 分からないのは、この戦闘に関与した連合軍の数だ。BourdeauだけでなくSchelsを見ても兵力数は明記されていない。歩兵が10個大隊、騎兵が18個大隊あり、それを3つの旅団(バヤリヒの歩兵4個大隊+2個中隊と騎兵6個大隊、フレーリヒの歩兵3個大隊+4個中隊と騎兵4個大隊、カラクツァイの歩兵2個大隊+騎兵8個大隊)に分けていたことは両者で一致している。でも兵士の数は不明だ。
 有名なのはVivenotがThugut, Clerfayt und Wurmser"http://books.google.co.jp/books?id=J04_AAAAcAAJ"(p230)やHerzog Albrecht von Sachsen-Teschen als Reichs-Feld-Marschall"http://books.google.co.jp/books?id=EtE5AAAAcAAJ"(p495)で主張しているクォスダノヴィッチの兵力4000人説。彼の主張はたとえばこちらの雑誌"http://books.google.co.jp/books?id=1z3QAAAAMAAJ"(p102)でも継承されている。
 だがVivenotが何を論拠に4000人説を主張しているかは不明。こちら"http://www.napolun.com/mirror/web2.airmail.net/napoleon/Austrian_infantry.htm"によると時期は少し違うがオーストリア軍の歩兵大隊は定員1200人規模だったとされており、それが事実ならクォスダノヴィッチの部隊は歩兵だけで1万2000人とVivenot説の3倍いた計算になってしまう。戦役による損耗が半分あったと考えても6000人であり、実際にはさらに騎兵18個大隊も加える必要がある。
 もっと参考になる文献はないのかと思って探してみると、Österreichische Militärische Zeitschriftの別の号"http://books.google.co.jp/books?id=cLAUAAAAYAAJ"に「原資料」(p300)を参考に書かれた記事があった。そこには「1万人のクォスダノヴィッチ師団」が9月24日に戦ったと記されている(p315)。この数なら歩兵大隊、騎兵大隊数から見ても違和感は少ない。その場合、Vivenotの言う4000人はクォスダノヴィッチの全兵力ではなく、ネッカー右岸で戦ったバヤリヒ旅団のみの数だと考える方が妥当であろう。
 つまりVivenotがバヤリヒ旅団のみの数字とライン右岸に渡ったフランス軍全体の数(1万2000人から1万5000人)を比較して連合軍が圧倒的少数だったとしているのは、不誠実な比較ということになる。比べるのならクォスダノヴィッチ師団全体(1万人)と対比すべき。それでもフランス軍の方が数的優位を持っているのは確かだが、ハントシュースハイムで戦った数のみは連合軍4000人に対しフランス軍は5個旅団のうちの1つに過ぎない。全体1万5000人だとすれば1個旅団は3000人程度、Bourdeauの言うように1万2000人だったなら2400人に留まった計算になる。ハントシュースハイムという限られた戦場においては連合軍の方が数で上回っていた可能性があるのだ。
 もちろん重要な戦場において数的優勢を得ることは極めて重要である。だがクォスダノヴィッチがそのために積極的に動いたとは思いづらい。結局のところ彼は配下の3個旅団を南北に並べただけであり、そのうち数的優位がある場所にたまたま数で劣るフランス軍が先に攻め寄せただけとも言える。フランス側のミスに乗じた点は褒められるのだろうが、相手のミスを誘うような手を尽くしたとは言い切れない。
 そう考えるとこの戦いは連合軍の勝利というより、やはりピシュグリュの敗北だったのだろう。自ら戦場に姿を見せないという彼の指揮統制スタイルが、この時代の戦争形態には合わなかった可能性がある。結局のところ、ナポレオンやウェリントンのような実績ある司令官たちは最前線で自ら指揮を執っていたのだから。
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