敗北のピシュグリュ

 承前。兵力をオッペンハイム―マンハイムに向けると決断したピシュグリュだったが、振り向けた兵力は充分とはいえなかった。たとえばライン上流にはドゼーの3個師団が残っていたが、Bourdeauによるとこれは実は公安委員会から数日前に出ていた命令に従ったものだという。現場の状況が変わったから対応も変えるという行動をピシュグリュは取らなかったようだ。
 またピシュグリュはマインツ前面に置いている封鎖部隊もあまり動かしたがらなかった。ライン左岸に残っている連合軍の拠点であるマインツからは、いつ連合軍が出撃してくるか分からない(実際にハントシュースハイム戦後にクレアファイトがここから出撃してフランス軍を追い戻した)。加えてサンブル=エ=ムーズ軍に追われた連合軍の下ライン軍がマインツ対岸に集まっていたため、余計にピシュグリュはこの方面を気にせざるを得なかったようだ。
 9月21日時点でマンハイムにいたのは第6及び第7師団であり、その周辺には1日行軍の距離で第12師団と第5師団の1個旅団(ランベール)がいた。またマンハイムから30キロメートルほど離れたアルツァイには予備騎兵も布陣しており、その気になれば以上の戦力をライン対岸に送り込めただろう。だがマインツ方面を懸念していた慎重なピシュグリュは第12師団と騎兵予備は動かさず、結果としてハイデルベルクを巡る戦闘に参加したのは歩兵2個師団半だけだった。
 書類上によるとこれらの戦力は22日時点で約1万5000人(歩兵1万3663人、騎兵1669人)。ただしBourdeauは、実際に対岸に行った兵力は最大で1万2000人だったと見ている。ピシュグリュを批判する人はこの兵力が少なすぎると指摘し、それは彼が裏切っていたからだと説明している。だがこれまで述べてきたように、実際にはそれ以外の理由で兵力が減ったと説明することが可能だ。
 
 マンハイム陥落の可能性に気づいたヴルムザーが送り出したクォスダノヴィッチがこの町の近くに到着したのは、降伏交渉が行われている20日だった。だがその数時間後にはマンハイムは降伏してしまい、彼は上下ライン軍をつなぐハイデルベルクを通る街道を守るべく布陣した。その戦力は歩兵9個大隊、騎兵18個大隊に達していたという。
 実はこの時期、クォスダノヴィッチ以外にもマンハイム近くにいた連合軍部隊が存在した。ネッカー北岸のランパートハイムにいたツェーントナーの部隊がそう。元は歩兵14個中隊(2個大隊強?)、騎兵8個大隊で、さらにマンハイムの降伏に伴いそこから退却してきたミトロフスキー大隊が加わっていたという。クォスダノヴィッチの主力がネッカー南岸にいたため、フランス軍はこの2つの敵に対応する必要があった。
 Phippsによるピシュグリュ批判の中に、ネッカー南岸に兵力を集中させるべきというものがあった。だが実際には北岸にも敵がいたわけで、こちらへの対応を考えると北岸にも兵力を送り込んだのはそれほどおかしな対応ではない。
 23日、第7師団を率いるデュフール師団はネッカー北岸のマンハイム近くにあるケーファータールとヴァルシュタットを1個旅団で占拠し、ランパートハイム方面を偵察させた。さらに南北をつなぐ街道上のシュリースハイム、ドッセンハイムまで押し出し、ツェーントナーの前衛部隊を排除した。また一部はそのままネッカーまで進み、クォスダノヴィッチ右翼の部隊をノイエンハイムから撃退したという。デュフールの攻撃によってハイデルベルクから切り離されたツェーントナーは北方ヘッペンハイムまで後退。翌日の戦闘には参加しなくなったため、この時点でのネッカー北岸での戦闘はフランス軍にとって成功といえる状況になった。
 一方南岸ではアンベールの第6師団がハイデルベルクへ前進したが、先頭を担ったダヴー旅団がヴィープリンゲンまで突出したのに対し残りの部隊はかなり後方に取り残された。加えてアンベール自身、ダヴーの位置を把握していなかったという。この日の容易な勝利はピシュグリュに翌日のハイデルベルク占領と、その後でクレアファイトの背後を突くように移動することを決断させた。
 24日、北岸ではケーファータールとヴァルシュタットに布陣して側面を守る役割をデュフール師団のカヴロワ旅団が担い、南岸では前日に到着したばかりの第5師団所属ランベール旅団が同じ任務を任せられた。彼らはヴィースロッホ方面を偵察することになっていた。ハイデルベルク攻撃はデュフール師団のうちデュジラ旅団が北岸で、そしてアンベール師団が南岸で行うことになった。
 ツェーントナーがいなくなり、この地域の防衛を一手に任される格好となったクォスダノヴィッチは、配下の3個旅団を以下のように配置した。まずバヤリッヒ旅団の歩兵2個大隊と2個中隊でネッカー北岸のハントシュースハイムとノイエンハイムを保持し、その支援用にハイデルベルクに歩兵2個大隊と騎兵6個大隊を残す。南岸ではフレーリヒがハイデルベルク前面、右翼をネッカーに、左翼をキルヒハイムに置いた戦線に、歩兵3個大隊と4個中隊、騎兵4個大隊を配置。最左翼のヴィースロッホにはカラクツァイ旅団(歩兵2個大隊と騎兵8個大隊)を置いた。
 ピシュグリュはハイデルベルク攻撃を夜明けとともに行うようアンベールに命じた。攻撃に際しては北岸のデュフールと新たに来たランベールとも話し合うように指示されていたのだが、彼の下に命令が届いたのは前日夜7時であり、しかも彼は味方の具体的な位置を知らなかった。時間的に夜明けの攻撃には間に合わないと判断したアンベールはデュフールに対し、出発を翌朝7時まで延期すると伝えた。
 翌朝7時、北岸のデュジラ旅団は計画通りにハイデルベルクへ前進し、ハントシュースハイムで交戦を始めたところで、ダヴー旅団からまだ攻撃を始められないとの連絡が入った。上にも記したようにアンベールは配下のダヴー旅団がどこにいるかすら知らず、ダヴーにハイデルベルクを南岸から攻撃するという役割を伝えるのが極めて遅くなった。またダヴーの右翼で作戦するはずのベルトラン旅団の出発も遅れていたという。結果、歩調を合わせて攻撃するはずのフランス軍は、北岸のデュジラ旅団が突出し南岸のアンベール師団は後方でもたつくことになった。
 ハイデルベルクは高地の麓にあり、連合軍からは平野部でのフランス軍のこれらの動きがはっきりと見えた。そこで連合軍は突出しているデュジラ旅団にハイデルベルクにいた予備を振り向けた。騎兵の突撃から始まった連合軍の攻撃はまずフランス軍騎兵を蹴散らし、続いてデュジラ旅団の側面を騎兵が、正面を歩兵が合わせて攻撃した。フランス軍は粉砕され、デュフールは捕虜になった。後方にいたカヴロワ旅団も退却を強いられた。
 北岸での大敗を知った南岸のアンベール師団、ランベール旅団もまた、マンハイムへ後退するしか手がなかった。かくして連合軍を分断する作戦は失敗に終わり、ピシュグリュの部隊はマンハイムに閉じ込められる。体勢を立て直したクレアファイトはサンブル=エ=ムーズ軍をライン右岸から撃退するのに成功し、さらにその後にマインツから出撃してここを封鎖していたピシュグリュの軍勢も押し戻す。1795年戦役はかくして連合軍の勝勢で休戦を迎えた。
 
 以上がBourdeauの説明する「マンハイムのピシュグリュ」だ。彼の行動は確かに拙かった。長期にわたってライン上流に部隊を残していたのは、連合軍の渡河攻撃に備えるためとはいえリスクを回避しすぎた結果としてローリターンしか得られないような選択であった。渡河攻撃がなくなった後も多くの部隊を残したことについては、状況変化を理由に公安委員会の命令に反してでももっと多くの兵を動かすべきだっただろう。
 直前になってマインツ方面に備えるため第12師団と騎兵予備をライン左岸に残したのも、慎重すぎる対応だった。ピシュグリュ自身がオッペンハイム―マンハイム方面への転進を言い出したのだから、主導権を握って積極的に行動すべきだったと思われる。また渡河後の攻撃を部下の1師団長に任せ、自ら最前線に出なかったことは、最終的な敗北につながる大きな理由の1つになった。いつものピシュグリュのやり方だと言えばそれまでなのだが、複数の師団を指揮できる立場にある人間が現場に近づかなかったことがここでは致命傷になった。
 だが、ピシュグリュの行動を見てその指揮の拙さは指摘できても、裏切りを裏付けるような証拠は見つからない。それがBourdeauの結論だ。マンハイムのピシュグリュは(まだ)背信者ではなかった。単に軍人として二流、三流だっただけである。
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