マンハイムのピシュグリュ

 以前こちらでピシュグリュの話を書いた"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/28220153.html"。ハントシュースハイムの戦い(ハイデルベルクの戦闘)におけるピシュグリュの失敗について、王党派に通じていた彼による裏切りが原因か、あるいはそうではないのかという問題についてPhippsの本に対する批判をしてみた。ただ、あくまでこの時点では思いつきによる批判であり、きちんと背景を調べたわけではなかった。
 ところがネットを探してみるとこの件についてきちんと調べていた人間が既に100年以上前にいたことが分かった。Henry Bourdeauの書いたPichegru a-t-il trahi à Mannheim?"http://books.google.co.jp/books?id=qmBBAAAAIAAJ"がそれだ。google bookでは一部しか読めないが、この話を連載したRevue d'histoireならGallicaで閲覧可能。前編は1909年6月号"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1217563"(p369-393)、後編は同年7月号"http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121757g"(p1-38)で読める。
 
 この戦役においてピシュグリュが裏切りをしていたと主張する本は結構ある。Phipps以外にも有名どころだとThiersが「彼[ピシュグリュ]は故意に敗北を蒙ろうとした歴史上で唯一知られる将軍である」(Histoire de la Révolution Française, Tome VII"http://books.google.co.jp/books?id=9aMFAAAAQAAJ" p376)と書いている。他にもこちらの本"http://books.google.co.jp/books?id=TTlLAAAAMAAJ"の2巻p73、こちら"http://books.google.co.jp/books?id=2ZEIAAAAQAAJ"の2巻p265などにそうした話が載っている。英語wikipedia"http://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Charles_Pichegru"にも裏切りの文字がある。
 ピシュグリュが亡命した王党派と通じていたこと自体は事実であり、最終的には逮捕されて獄中で死亡した。だが彼がそうなったのは1795年戦役から10年近くも後のこと。後に裏切ったからと言って過去にも裏切っていたに違いないという議論が成立しないことは、例えば1806年戦役のベルナドット"http://www.asahi-net.or.jp/~uq9h-mzgc/g_armee/dornburg.html"を見ても分かる。
 Bourdeauによれば、1795年戦役時点でピシュグリュが裏切ったと主張している同時代人にはスールト(Mémoires du Maréchal-Général Soult, Tome Premier"http://books.google.co.jp/books?id=RKyMxU4GR_MC" p253-257)、サヴァリー(Mémoires du duc de Rovigo, Tome I."http://books.google.co.jp/books?id=wbMUAAAAQAAJ" p9-14)、マルモン(Mémoires du duc de Raguse, Tome Premier"http://books.google.co.jp/books?id=rZo8AAAAYAAJ" p77)がいたそうだ。
 だがスールトの判断はあくまで「印象」に過ぎず、サヴァリーも同様である。サヴァリーについてはナポレオンの下で警察大臣をやっていた人物だけに、ナポレオンの政敵であるピシュグリュへの言及が公平かという点にも疑問はある。マルモンに至ってはラインを越えた部隊が1個師団だけ(実際は2個師団+1個旅団)と書いているなど事実関係に間違いがあり、これまた信頼度という意味では乏しい。それにスールトとマルモンはこの時、サンブル=エ=ムーズ軍に所属していたわけであり、近くでピシュグリュの動向を把握していたとは思えない。
 代わりにBourdeauが信頼できる歴史家として上げているのはジョミニ(Histoire Critique et Militaire des guerres de la Révolution, Tome Septième."http://books.google.com/books?id=w28PAAAAQAAJ" p193)、ドゥドン(Précis Historique des Campagnes de l'Armée de Rhin et Moselle"http://books.google.co.jp/books?id=aKlBAAAAcAAJ" xxi-xxiii)、サン=シール(Mémoires sur les Campagnes des Armées du Rhin et de Rhin-et-Moselle"http://books.google.co.jp/books?id=pQwO4O_33OUC" p334-335)などだ。そして彼らはピシュグリュが裏切ったとは考えていない。
 こうした専門家の意見もあり、一般的な世論もまた「軍人としてのピシュグリュではなく、政治家としてのピシュグリュが裏切った」(6月号 p374)と見ていた。そうBourdeauは書いている。つまり20世紀初頭時点でのフランスでは、ピシュグリュの軍事行動が裏切りによるものと思わない意見の方が普通だったことになる。だが上にも書いた通り、実際にはそうでない意見も結構あったし、そうした意見が新たに表明されることもあったという。だからこそBourdeauも改めてピシュグリュの行動を調べなおすことにしたのだろう。
 
 まずBourdeauは、ジュールダンがラインを渡り、ピシュグリュが公安委員会にオッペンハイムとマンハイム方面への転進を提言した後も、実際にはなかなか動き出さなかった理由を追跡する。問題になったのは、特に舟橋運搬用の馬匹不足。ライン西岸は革命戦争開始以来、両軍の戦闘が長年続いていたところであり、地域は相当荒らされ人間用だけでなく馬匹用の食糧も欠乏していたという。必要な馬匹がないため、動きたくとも動けなかったというのが理由その1だ。
 もう1つは、この時期に連合軍の上ライン方面軍司令官となったヴルムザーがライン渡河に向けた準備をしていたこと。ストラスブールやユナングなどライン上流にその目的地を定めていたという情報が、連合軍側に紛れ込んでいたスパイ「バシェ」から送られてきていたという。このバシェなる人物もシュルマイスターに負けず劣らず優秀だったようで、彼が送ってきた情報やトゥグートらオーストリア政府首脳の間でやり取りされていたものと平仄があっていたという。この情報のため、ピシュグリュは自らの左翼に近いオッペンハイムではなく、右翼であるライン上流域へ兵をシフトしなければならなかったという。
 一方、彼の足を引っ張ったのが派遣議員であるメルラン。彼は実はマンハイム内部の人間と通じており、交渉によってそこを明け渡すことで既に合意をしていたという。できるだけ早くマンハイムを落としたいメルランはピシュグリュに隠れて士官をマンハイムに送り事前交渉を進めたが、マンハイムにいたオーストリア軍がその事実に気づいてしまうという失敗も犯した。マンハイムの降伏交渉が行われたのは9月19~20日だったが、メルランは既に14日には降伏勧告をしており、連合軍も17日までにはその事実を把握していたのである。
 Bourdeauによれば、ピシュグリュはマンハイムを落とした後ですぐ対岸に兵を送れるよう事前に準備を整えたうえで、彼らに降伏を勧告するつもりだったらしい。確かにその方が奇襲効果を期待できる。マンハイム周辺の連合軍が手薄になったタイミングでここを手に入れ、すぐに渡河して対岸に拠点を築いてしまえば、連合軍が対応できる前に楔を打ち込むことが可能だ。だがメルランが(おそらくは手柄欲しさに)先走った結果、奇襲はできなくなった。
 さらにマンハイム(ライン右岸にある)とフランス軍のいるライン左岸をつなぐ橋が落とされていたのも、フランス軍の動きにとってマイナスだった。前年の1794年にライン左岸にあったマンハイム橋頭堡はフランス軍の手に落ちており、その際に橋は落とされていたのだ。マンハイムが降伏しても、フランス軍がラインを渡るには橋を架けなおす必要がある(だから舟橋が欠かせない)。机上では簡単に右岸に進出できるかもしれないが、現実にはいくつものハードルがあったわけだ。
 結局、ピシュグリュがライン上流へシフトしていた兵をオッペンハイムやマンハイム方面に振り向ける決断をしたのは、サンブル=エ=ムーズ軍の渡河を知ったヴルムザーが兵をライン下流へ向けた後のことだった。バシェから情報を16日ごろに得たピシュグリュは、17日か遅くとも18日には主力をオッペンハイム―マンハイム方面へ向かわせた。マンハイム陥落後の動きについては長くなったので次回に。
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