敵艦見ゆ(下)

 承前。受信側の記録を見れば、前回の冒頭で示した疑問の答えは明らかだろう。信濃丸がロシア艦隊を発見したのは「456地点」か「203地区」か「203地点」か。もちろん「203地点」(あるいは地点203)が正解である。
 佐渡丸、満州丸、八幡丸、笠置、和泉、秋津洲がそろって203地点と記録に残しているのだから普通にこれが正解だろう。というか456地点などと記している例は1つもないし、地区という用語を使っているものもない。亜米利加丸のみが笠置からの情報として「205地点」という異なった数字を示しているが、笠置自身が信濃丸からの情報を203地点としているのだから、これは亜米利加丸の間違いだろう。
 ではこの203地点という情報はいつ伝えられたのか。それを調べる前に信濃丸がロシア艦隊を見失う前に送った電文の種類と順番をまず確定しよう。それぞれの記録を見ても送った電信は主に4種類。「敵艦らしき煤煙見ゆ」、「敵の艦隊(あるいは第2艦隊)見ゆ」、「東水道に行く(向かう)」あるいは「通過しつつある」、「15隻以上目撃す」がそれだ。和泉の電信記録を信用するのなら「東水道に行く」と「東水道を通過せんとする」は別の電信ということになる。
 このうち203地点が2番目の「敵の艦隊見ゆ」と同時に送られたとしているのが佐渡丸、八幡丸、笠置、秋津洲、和泉であり、3番目の「東水道に向かう」と同時だったとしているのが満州丸。多数決であれば「敵の艦隊見ゆ」と同時に位置も伝えてきたと解釈するのが適当だろう。満州丸は間違いか勘違いをしたということになる。ただし、そう決め付けるのも難しい。
 なぜか。それぞれの艦船の受信時刻のずれがヒントになる。まず最初の「敵艦らしき煤煙見ゆ」だが、傍受した時刻について4時45分(亜米利加丸、八幡丸、新高、和泉電信記録)、同47分(和泉日誌)、同50分(佐渡丸)、同52分(千歳)のそれぞれの説があるし、「敵の艦隊見ゆ」になると4時50分(亜米利加丸、音羽)、同52分(和泉)、同53分(秋津洲)、同55分(新高)、5時(佐渡丸、満州丸、笠置)とバラバラだ。
 それぞれの艦における時計がずれていたのかもしれないが、同時に考えられるのが信濃丸が何回も同じ内容の電信を繰り返した可能性。というか当時無線電信はまだ発明間もない技術であり、当然受信できるかどうかも不安定であっただろう。信濃丸自身が妨害を受けたと認識していたのも、当時の無線交信の難しさが勘違いを誘発したためかもしれない。相手に確実に届けるために、同内容を繰り返して送信するといった工夫がなされたのはむしろ当然だと思われる。
 だとすると発見した203地点についても繰り返し送信していたのではなかろうか。いくつかの艦は敵発見とほぼ同じタイミングでこの情報入手に成功したが、中には遅れて203地点を知った艦もあったし、亜米利加丸や千歳のように笠置経由で初めて場所を把握したと思われる例もあった。信濃丸から直接受信した艦も自ら情報を発信したはずで、それが最終的に厳島経由で連合艦隊司令部に届いたのだろう。
 なお、尾崎湾にいた艦船への情報は信濃丸から直接ではなく、他の艦船を経由したものだった可能性も高そうだ。最も早く入手した艦の1つである橋立でも午前5時と、哨戒艦の最も遅い時刻と同じ。厳島や千代田に関してはそれより遅く、連合艦隊司令部と同じかその後になっていたりする。信濃丸から直接電信が届いていたのなら、流石にもう少し早く傍受していたと思われる。
 
 以上が一次史料から想像できる話であるが、それにしてもロシア艦隊の居場所として「203地点」や「203地区」はまだしも、どうして「456地点」なる説が生まれてきたのだろうか。少なくともアジ歴の史料を見る限り、どうやっても456なんて数字は出てきそうにない。
 wikipedia"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6"の「通報」の項目に、1971年に出版された本"http://www.amazon.co.jp/dp/B000J9CXIO"によれば信濃丸の第一報は“タタタタ(モ四五六)「YR」セ”であったと書かれている。意味は「敵艦隊見ゆ 456地点 信濃丸」だそうだ。さて、この話はどこまで正しいのだろうか。
 実はこの暗号文そのままの史料がアジ歴にもある。日本海海戦電報報告(C09050518500)に収録されている電文で、たしかにそこには(rが小文字である点を除いて)まったく同じ暗号が記録されている(25/53)。問題は、それを発した時刻について「5月28日午前6時55分」と書かれていることだ。日本海海戦が始まったのは5月27日。それから1日以上後の電文を持ち出されて「これが第一報である」と言われても困る。
 もしかしたら私が見つけていないだけで27日にも全く同じ文面の無線が発信されていたのかもしれないが、それはあり得ないと見ていいだろう。ロシア艦隊が全く同じ場所で全く同じ艦に24時間以上後に再発見されるという偶然が起きることは、ほぼない。こちら"http://nemuihito.at.webry.info/201106/article_4.html"でもこの話に言及しているが、「456地点は対馬の北東に当たる海域」だそうだ。対馬の東水道にこれから向かうと信濃丸が報告していることを踏まえるなら、いよいよ456地点はない。上の本の著者が間違えたと見ていいだろう。
 ところが世の中にはこの“タタタタ(モ四五六)「Yr」セ”を今でも信濃丸の(27日の)第一報として紹介している例がある。特に呆れるのがこちらの本"http://books.google.co.jp/books?id=9HinAgAAQBAJ"で、それによると「『モ四五六』は、二〇三地点を意味している」んだそうだ。それがあり得ないのはアジ歴の日本海海戦電報報告を見れば一目瞭然。「タタタタ云々」の平文は「敵艦隊見ゆ 四五六地点 信濃丸」になっている(24/53)し、他にもモ277が277地点である例(49-50/53)、モ307が307地点である例(51/53)が見つかる。和泉の電信記録(C09050263500)でも4時52分「『モ203』敵の艦隊見ゆ」とはっきり書かれている(53/79)。
 
 信濃丸が実際に発した電信の内容はどんなものだったんだろうか。こちら"http://navgunschl.sblo.jp/article/33903460.html"によると最初の「敵艦らしき煤煙見ゆ」の「実際の電文は『ネネネネ』」だそうだ。となると次の「敵(第2)艦隊見ゆ」は「タタタタ」だったと想定される。タタタタだけで「第2艦隊」まで意味しているかどうかは難しいが、受信側の中に単に「艦隊」と解釈した例もあるのだから発信自体はタタタタだったのだろう。受信側のうち、一部で気を利かせて「第2艦隊」(ロシア第2太平洋艦隊のこと)と翻訳した連中がいたのだと思う。
 もし203地点を同時に伝えていたのなら、その後に「モ203」があったと思われる。また信濃丸を意味するYrがついていたのは確実だろう。ただ、一部で言われているように発信時刻である「0445」までつけていたとは思いにくい。それがあったのなら受信側の時刻があれだけバラバラになる理由がないし、これまで調べたどの史料にも発信側が時刻をつけて送った証拠は見当たらない。そもそも私が想定しているように何度も繰り返して無線送信したのであれば、いちいち時刻をつける意味はないだろう。それに4時45分の電文は「ネネネネ」であって「タタタタ」ではない。
 様々な一次史料を使って書かれた「極秘明治37、8年海戦史」(C05110084400)も、信濃丸が最初の「敵艦隊らしき煤煙見ゆ」と発した時刻を4時「45分頃」、「203地点に敵の第2艦隊見ゆ」と発したのが「50分頃」だと、曖昧な表現にとどめている(3-4/62)。信濃丸の電文に発信時刻まで書かれていたのなら、この本でも「頃」などとつけずにはっきり時間を記していたことだろう。信濃丸は最初は「ネネネネ Yr」、それから「タタタタ モ203 Yr」と繰り返し発信したのではないだろうか。
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