祭りの終わり

 「初音ミクはなぜ世界を変えたのか?」"http://www.ohtabooks.com/publish/2014/04/03182656.html"読了。ブームが山を越え落ち着きを見せてきたこのタイミングで、その流れを歴史的に位置づけようとした本なのだろう。特に音楽に焦点を合わせている面が、この過ぎ去った祭りを懐かしく振り返る感じをもたらしているのかもしれない。音楽以外まで含めれば、まだ商業ベースでの盛り上がりは続いている状態なので。
 著者は初音ミクの発売以降の流れについて、2007年という「運命的なタイミング」で生まれ、08年に一気に成長、拡大し、09~10年に商業化というターニングポイントを迎え、ミクノポリスがLAで開かれた11年にピークに達したと見ている。今なおカラオケで人気の千本桜"http://joysound.com/ex/ranking/karaoke/total/weekly.htm"、アニメ化が始まったカゲロウプロジェクト"http://mekakushidan.com/"の最初のヒット曲が生まれたのがこの年であるのを見ても、現在の「ボカロ」シーンはこの年までの遺産で食っている状況だと言える。
 12年以降は「勃興期の熱気が失われた」時期であるが、同時にブームがカルチャーとして定着していく時期でもある、と著者は分析している。「ボカロ」文化で広まった高速ロックがJポップ全体に広まる一方、大衆文化ではなくハイソな世界でも合成音声が使われるようになった。パリのシャトレ座に初音ミクが登場したのは、ある意味そこまで上り詰めたとも言えるし、逆にそこまでたどり着く頃には生み出した大衆(ローソサイエティ)の熱気は消えつつあるとも言える。
 最後の方に載っているクリプトン伊藤社長のインタビューでも「ボーカロイドから派生した動画に対する再生数が、ウチの調べでは二〇一三年のゴールデンウィークくらいからだいぶ落ち込んでいるという印象があります」との指摘が出ている。確かにブームは終焉を迎えつつあるんだろう。新しい市場になるかもしれないと思っていた海外も、google trendsを見る限り11年ごろから高値横ばいの傾向が続いている"http://www.google.co.jp/trends/explore#q=hatsune%20miku"。少なくとも成長期は終わった。
 流行歌ってのはいずれ廃れるものだし、その意味では「ボカロ」の熱気が薄れていくのも当然。むしろここまで大きな流れにならずに消えていくブームが大半だと思えば、これはかなり立派なものだ。少なくともある世代においては「ボカロ」がかなり強い刻印を残したことは確かであり、その世代が生きている限りは常に振り返られ、懐かしがられるに違いない。時にはリバイバル的ブームもあるだろう。それも含め、カルチャーの中に一定の存在感を持って定着したことはおそらく事実だ。
 
 それにしても祭りの最中に書かれた文章というのは、後から読むと気恥ずかしくなるところがある。例えば最初のサマー・オブ・ラブについて書かれた文章。「一緒でさえいれば、泥だって、雨だって、空腹だって、喉が渇いていることだって、すべてが愛に感じられた」「三〇万人、それぞれ一人一人が、マッチを灯した。それが集まって一つの灯火になって、新しい世代を照らす光のシンボルになっていた」(p59)。背中がかゆくなるような文章である。
 もちろん、今回のサード・サマー・オブ・ラブでも同じような文章が残されている。著者はミクノポリスについて書かれた文章を紹介しているが、上の文章と似た感情がそこには横溢している。「彼女はCGでした、合成音声でした。でも彼女が去っていく時、全員が切ない気持ちになりました。もっとここに居て、歌を聞かせて欲しいと願うようになっていました」「まさか本当に人類史に残るレベルの歴史が誕生するとは思ってませんでした」(p186)。こういう風に陶酔状態に陥る人が多く存在しなければ、ブームと呼べるほどのものにはならないのだろう。
 ただ皮肉なことに、この両者の類似を見る限り、今回の現象(サード・サマー・オブ・ラブ)には実は目新しさも画期的なこともなかったと判断せざるを得ない。単に上の世代の流行を受け入れられない若者にうまくマッチした流行歌が生まれ、熱しやすい若者がそれに陶酔しただけ、と解釈することが可能なのだ。もちろん個々のツールや音楽の技術には進歩もあった。でも現象としては若さの発露の一種という位置づけに過ぎない、というか合成音声の音楽も結局はそういう位置づけとして世の中に回収されたと見るべきだろう。
 もしかしたら合成音声にはそれとは違う別の発展もあり得たかもしれない。サード・サマー・オブ・ラブはそうした多様な可能性が消え去り、「一つの世代の音楽」という道が残される過程だったのかもしれない。でもそれは今更言っても仕方のない話。合成音声を使った音楽は、上の世代と違うものを求める若者たちに「ボカロ」として吸収され消費された、というのが歴史的な事実である。どれほど凄い技術でも社会に受け入れられなければ何の意味もない。そう考えると、合成音声技術は受け入れられただけ幸せだったと見ることもできるだろう。
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