輪番射撃

 火器に関連して「東アジアの兵器革命」"http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b73821.html"を読んだ。文禄・慶長の役(中国では万暦朝鮮の役というらしい)を通じて日本から伝わった最新の火縄銃と戦術が明朝でどのように採用され、戦争形態の変化につながっていったかを、中国側史料を中心に記したものだ。捕虜となった日本兵がその後、明朝の武官に雇われ各地を転戦したといった話が紹介されている。
 火器はもともと中国で生まれたものであり、そこからユーラシア西方だけでなくアジアにも広がっていったと見られている。一例が大越で、1390年には海戦で「火銃」が使われたという記録があるそうだ("http://www.ari.nus.edu.sg/docs/wps/wps03_011.pdf" p4)。また種子島への鉄砲伝来より100年前に琉球に火器が存在していた"http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-107435-storytopic-86.html"ことも知られている(李朝実録"http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp"によれば1453年5月11日の記事に琉球の中山王が『火筒』について語ったことが載っている)。いずれもヴァスコ・ダ・ガマのインド航路「発見」前であり、欧州経由ではなく中国の火器が伝わったと考えるべきだろう。
 日本についても種子島への伝来以前から火器が使われていたとする史料があるそうだ。こちら"http://d.hatena.ne.jp/oboro117/20100819/p1"にそのいくつかが紹介されており、中には琉球の人間が京で鉄砲を撃ったと記しているものもあるという。Kenneth Chaseによれば朝鮮では遅くとも14世紀には明白な火器に関する記述が見られるそうで(Firearms"http://books.google.co.jp/books?id=esnWJkYRCJ4C" p173)、つまり東アジアには既に火器文化圏とでも呼ぶべきものが広がっていたと思われる。
 「東アジアの兵器革命」で取り上げるのは、もっと後の16~17世紀の動向だ。1500年以前は中国から周辺に緩やかに広がった火器が、1500年以降になるとむしろ西方からの技術導入を経てさらに日本で成熟した技術や手法が周囲に広がるという流れになっている。技術先進国だった中国がむしろ技術輸入国になったのがこの時期だ。明朝下における火器技術の停滞に対し、Outer Zoneであった欧州や日本が「火器の祖国」をあっと言う間に追い抜いていった様子が窺える。日本に対抗して明朝が調べたのがオスマンや欧州の銃だったあたり、彼らが16世紀の時点で完全に立ち遅れていたことが分かる。
 しかも明でそうした技術や戦術導入に積極的だったのは、政府全体ではなくあくまで個別の武官たちだった。彼らは例えば日本兵捕虜を個人的に家丁として雇い、それをうまく使って戦闘を行おうとした。一方、明政府は武官たちに「軍餉」という補給物資を渡すやり方で間接的に軍事力の活用を行ったが、国家としてより主体的に新技術や戦術を取り込もうとした様子はない。結果、明の武官たちが女真族に寝返ると明の軍事力自体が失われていき、清王朝成立へとつながっていった。
 
 以上のような歴史的背景の説明だけでなく、日本軍が明に持ち込んだ「輪番射撃」についての指摘があることも、この本が話題になっている一因だ。最近はこちらの本"http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b147004.html"で、長篠の戦において昔ながらの三段撃ちはなかったかもしれないが輪番射撃はあったのではとの指摘があるらしい点も、色々と注目を集めているようだ。「東アジアの兵器革命」では、そうした輪番射撃が朝鮮の役を通じ大陸に伝わった可能性を指摘している。
 一例がこちらの図"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ming_musketeers.jpg"。明代に書かれた軍器図説に収録されているもので、なるほど順番に撃っていると見てもよさそうな図ではある。同じく明代に書かれた神器譜2巻"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2567964"にも「5人更番放銃図」(18/39)なるものが描かれている。5人の兵のうち2人が銃を構え、2人が弾を込めている図だ。最後の1人は何も持っていないなどよく理解できない部分もあるが、これも輪番射撃を示した可能性はありそう。
 絵だけではない。神器譜1巻"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2567963"には日本兵捕虜が攻めてきたモンゴル人に対し「以火器更番撃打」(67/75)という表現があり、やはり輪番射撃を意味していると思われる。また経略復国要編なる本にも「倭奴用分番休迭之法」という一文が入っており、これまた輪番射撃のことを指しているようだ。要するに輪番射撃という戦術が日本経由で入ってきたことは間違いなさそうなのである。
 ただこれらの「輪番射撃」が具体的にどんな方法を使っているのか、特に装填をどうしているのかについてはよく分からない部分がある。こちら"http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/sengoku/nagasino.htm"では成立年代が不明ではあるが「長篠日記」なる史料に「千挺宛放懸、一段宛立替打ツベシ」とあるところから「三回銃撃する間に、一段目が弾込めを終わるというのは、どうやら読み過ぎのようである」と解釈している。予め弾丸を込めておき、それを順番に撃つという解釈のようだ。
 「東アジアの兵器革命」でも輪番射撃という文言は出てくるが、具体的な射撃法までは踏み込んでいない。かつて「三段撃ち」としてよく紹介されていた「1列目が射撃後に最後尾へ移動して弾込めをする」という話は大日本戦史なる本を通じて有名になったそうだが、それがそのまま実施されたかどうかは不明。あるいは以前紹介した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54483622.html"小規模な散兵的集団の中で交代に射撃するといった方法が採用されていたのかもしれない。ナポレオン時代の散兵も基本は2人1組で交互に射撃を行う仕組みだった。
 
 それにそもそも輪番射撃という概念は別に日本独自のものでもない。種子島への鉄砲伝来以前、16世紀初頭のイタリア戦争で既に輪番射撃が行われていることは、以前にも指摘した"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54476721.html"通りだ。同時代人であるパオロ・ジョヴィオが記したLa vita del signor Don Ferrando Daualo Marchese di Pescara"http://books.google.co.jp/books?id=q7XZht98LW4C"には「1列目がアルケブスを撃つと即座に膝をついて身をかがめて再装填し、2列目は前にいる者を危険に晒すことなく射撃できる」(p61)という射撃法を紹介している。
 だが17世紀の戦争について記した文章"http://books.google.co.jp/books?id=WYMycUTDDiwC"の中には膝をついての装填は無理としているものもある。前の列が膝をつき、3列目が撃った後で2列目が立ち上がる方法で輪番射撃を行うのだが、再装填の際には全員が立っている必要がある。「銃の長さと密集した戦列のため、膝をついて再装填するのは無理」(p397)というのが理由だ。16世紀にはできたとされていることが、なぜ17世紀にはできなくなったのか。
 おそらく1600年頃を境に燧石式マスケット銃と銃剣が広まったのが理由だろう。火縄を使わない銃であれば隣の兵と肩が接するくらい密集した戦列を敷いても暴発などの危険が減ったことがあるのと、銃剣を使うため銃そのものの長さも槍の代わりになる程度は必要になったことが、座っての再装填を不可能にしたのだと思われる。たとえば18世紀のロング・ランド・パターン・マスケットは62インチ(157センチ)もあった("http://books.google.co.jp/books?id=i0DYFfcfgdsC" p144)そうで、そりゃ確かに座っての再装填は困難だ。
 一方、16世紀のアルケブスは4フィート強、つまりマスケット銃より一回り小さい120センチ強の長さだったという("http://books.google.co.jp/books?id=7aXfY00fvDsC" p112)。加えて火縄を使っていたとなれば、兵士たちが肩を接するほど密集していなかった可能性はある。ジョヴィオの証言通り、膝をついての再装填もやろうと思えばできたかもしれない。朝鮮の役はもとより、長篠の戦いよりもさらに前から再装填を含む輪番射撃が存在していたことになる。
 そう考えると、長篠の戦いで輪番射撃が行われていたとしても、それが歴史的に重要な画期になるわけではなかろう。誰もが思いつき、既に行われたことが、その時も実施されただけとなる。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック