Eastern Outer Zone

 今回は妄想がらみ。
 ChaseはFirearms"http://www.amazon.co.jp/dp/0521722403"の中で、日本で起きた天下統一の流れを「雪玉効果」という言葉で説明している(p183-184)。信長も秀吉も別に火器を独占しその力によって天下を統一したわけではない。戦国大名なら誰でも伝来以降は鉄砲を手に入れていた。だが「軍がパイクと火器で武装した歩兵によって構成されるようになると、より多い人口と多大な資源を支配する戦国大名が有利になる」(p184)。信長や秀吉は他の大名より多い人口と多大な資源を手に入れ、それをテコに領地を広げてさらに人口と資源を増やす。雪玉がどんどん大きくなるような流れに乗って天下統一を成し遂げたというのが、Chaseの意見だ。
 極めてシステム的な見方であり、これだけ読むと信長はたまたま他の大名より先に大きな人口と資源を手に入れただけとも読める。一方「戦国の軍隊」の著者はもう少し当事者の努力を評価している。信長が強くなったのは反信長包囲網の攻撃をしのぐ過程で武者や足軽たちが経験を積み、生き残り競争の中で有能な人材が集まり育ったため。そしてもちろん、信長自身の「的確な判断力と果断さ、そして強運」(p243)も寄与した、というのがその主張だ。
 それにしても日本の内乱は最終的に統一へと至ったのに、西欧はなぜずっと分裂したままで戦争状態が長く続いたのか。理由の1つはサイズだろう。フランスやスペインは1国だけで日本より大きく、ドイツも日本と似た大きさを持っている。これにイタリアや英国、低地諸国、スイス、スカンジナビア諸国などが加わってChaseがOuter Zoneと規定したエリアを構成している。これだけ広ければ人口も多いし、その統一も困難になる。元々近代の国民国家としてありがちなサイズにとどまっていた日本の統一は西欧よりはるかに容易だったと思われる。文化的な共通性、エスニシティなども背景にあると思われる。
 それ以外の要因としてChaseが挙げているのが要塞だ。西欧で雪玉効果を食い止めたのは要塞だった。列強軍による攻撃を1シーズンにわたって吸収することができるtrace italienne"https://sites.google.com/site/ryoubaoshijoukakurisuto/"の存在は、巨大化した軍が一方的に勝利を重ねることを不可能にした。だが日本では西欧のような巨大要塞が生まれなかった。応仁の乱時点で人口2万人以上は京都以外に3つしかなく、うち2つは京都の商業ネットワークに属していた(p185)日本では、西欧に比べて大都市の数が少なすぎたことも大きい。京都周辺以外に大規模要塞を支えられるような人口集積地がなかったのだろう。
 火器が伝来した当初の日本と、同じく火器が伝わって以降の西欧における違いは、そう考えるとやはり地形や人口配置といった地理的要因である程度は説明できる気がする。大砲の有無は巨大要塞の有無に影響された部分が大きい(他に海軍の発展度合いもあるだろう)。山がちな日本の武士は平野の多い西欧の騎士ほどには乗馬にこだわらず、それが結果として密集したパイクを構成する西欧と、よりルーズに並んで叩きあいを行っていた日本の長柄隊との差を生んだ。
 
 それでも西欧と日本は、乾燥地帯の地理的特徴に比べればずっと共通項が多かったのだろう。何より西欧も日本も肥沃な土地で多くの作物が採れ、乾燥地帯に比べればはるかに人口密度の高い地域を構成していた。人の数が多かったからこそ頭数で勝負できるパイクや火器といった武器が広く使われ、発達していった。乾燥地帯ではそもそも多くの兵を食わせていくことができず、移動力の高い軽騎兵相手では火器の使用にも限度があった。そして、人口密集地であるが乾燥地帯に接しているInner Zoneの軍事は、どうしても乾燥地帯の遊牧民による影響を色濃く受けることになった。
 そう考えると、戦国時代の日本においても、もっと戦乱の時代が続いていれば西欧と同じように武器や戦術が発展を続けた可能性はありそうだ。実際、戦国時代の記録を見ても、そうした流れが進んでいたのではと窺わせる部分はある。
 以前にも書いた通り、1575年の長篠戦で織田信長軍3万人に対し彼らの持っている鉄砲は3000挺だったとされる。兵の1割という数字はイタリア戦争前のスイス軍と似たような比率であり、そしてスイス兵における火器はあくまでパイクを使った白兵戦のために露払いをするのが役割だった。日本でもおそらく同じような使われ方をしていたことも、これまでに指摘している。
 だが、戦争が続くにつれて西欧でアーケバス兵の比率が高まっていったのと同様、日本でも鉄砲の比率は次第に上昇していった。加藤清正の高麗国出陣武者分備定"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936480"の数字(p449-454)によれば鉄砲の比率は軍全体の14~15%に達している。さらに17世紀に入ると伊達政宗大阪冬陣陣立書("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908797" p334-338)に書かれている鉄砲が3430挺、小関重次大阪陣覚書に書かれている出陣時の兵力が「馬上七百余騎、雑兵御人数一万八千人」(p365)とあり、1万8000人のうちおよそ19%が銃兵だったことが分かる。
 伊達軍の数値はイタリア戦争で見られる高い数値(4分の1から3分の1)には及ばないものの、コルドバがイタリア戦争開始時に持っていたスペイン軍の比率(6人に1人)よりは高い("https://archive.org/details/artofwarinitaly100taylrich" p43)。少ない事例なので確定したことは言えないが、日本でも戦国時代を通じて鉄砲の比率が高まっていた可能性はあるし、鉄砲の重要性が増したことがその背景にあるのも間違いないだろう。
 とはいえイタリア戦争でスペイン軍がやったような改革、即ち火器が補助的な武器から主要な決戦兵器になるという変化は、以前にも述べたように日本で生じなかった可能性が高い。少なくともそれを裏付ける同時代史料は見つけていない。もっと日本、というかユーラシア東部のOuter Zoneが広く、地形がより多様で、ついでに海軍の活躍できる内海があれば、西欧だけでなくユーラシア東部でも火器が発達を遂げていたかもしれない。
 
 そこで一つ妄想を。日本列島は樺太から朝鮮半島の沖合いまで弓状に連なっているが、この場所が違っていて例えば朝鮮半島沖合いから台湾付近まで伸びていたなら、果たしてそれは歴史にどう影響していただろうか。つまり日本海ではなく東シナ海が内海になるような形状だ。日本海は地中海のようにその周囲に文明や交易が発達するには気候が厳しすぎるが、より温暖な東シナ海が内海化していたら、そこが諸文明の交流や対立の舞台となっていた可能性はないだろうか。
 乾燥地帯に近い華北や朝鮮半島がInner Zoneとなるのは仕方ない。一方、乾燥地帯の兵がほとんど襲来できない日本は余程のことがない限りOuter Zoneになるのは目に見えている。問題は華南だ。ここは宋時代には中国の経済中心地となっており、当然人口も密集していた。そして乾燥地帯との間には華北という緩衝地帯が存在していた。にもかかわらず華南がInner Zoneに組み込まれてしまったのは、昔から華北と政治的に一体化されていたからだろう。華南の接する文明地域が古い時代においては華北に限られていたことが、こうした傾向を生んだのかもしれない。
 もし日本列島が現在の琉球列島あたりに位置していたら。華南にとっては華北文明だけではなく日本との交流が生まれていただろうし、場合によっては華北との政治的統一も簡単に進まなかったかもしれない。遊牧民の侵攻をどこまで防げたかは分からないが、侵攻の際に日本からの救援もあり得ただろう。また史実において戦国日本が統一後に攻め込む対象は朝鮮半島しかなかったが、列島の位置が違っていれば侵攻対象が華南になっていた可能性もある。もちろん逆に攻め込まれることも考えられる。いずれにせよ史実の元和偃武ほど簡単に戦争が終わることはなかっただろう。
 戦争が続けば武器や戦術は発展する。中国では明の統一後に火器の発展が止まったが、火器があまり役に立たない北虜だけでなく、西欧的戦争が起こりえた南倭との戦いが本格的になっていれば、ユーラシア東部でも火器とその戦術が引き続き進化を続けていたことだろう。ジシュカやコルドバに相当する人物がユーラシア東部で生まれていた可能性だってないとはいえない。西欧に比べて狭すぎ、孤立しすぎているのがユーラシア東部にあるOuter Zoneの特徴であるなら、より孤立しない位置に列島を持ってくることで火器発達の歴史が変わったかもしれないのだ。
 
 問題が一つ。そもそもかつて華南は人口集積地どころか過疎地だった。マクニールの疫病と世界史"http://www.amazon.co.jp/dp/4122049547"によれば、まさに疫病こそがこの地への人類進出を妨げていたという。その地域に時間をかけて植民し、やがて豊かな穀倉地帯を築き上げていったのは華北の人間たちだったようだ。だとすると華北と華南の政治的統一は必然だったかもしれない。と同時に日本が南に寄りすぎて文明発達に向かない気候や風土になる可能性もある。そうなると上に書いた話はまさに机上の空論。これにて一巻の終わり、である。
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