9)ジャン=マリー=ガスパール・ゴーヴィリエ
1755年ソーヌ=エ=ロワール県のシャロールに生まれる。74年に軍に入ったが短期間で去り、その後は主に行政に携わっていたようだ。革命が起きた1789年には大尉となり、アンジェの国民衛兵第1中隊指揮官に就任。90年には少佐に、1793年2月3日にはアンジェ国民衛兵隊のchef de legionなる地位に就いている。
ヴァンデ叛乱の勃発時にアンジェにいたゴーヴィリエは3月14日、200人の国民衛兵隊を伴ってモージュの村々で起きた叛乱の鎮圧に向かう。18日までにモンジャン、ポンメレイ、ポワトヴィニエールの村々を確保したが、シェミーユで壊走したためアンジェへ慌てて後退する羽目に陥った。19日、彼はアンスニへと行軍している(このあたりの経緯はSixの本に拠る)。
4月に入り、共和国軍は王党派軍に対して本格的な反攻を試みる。4月11日、5000人から6000人の部隊を率いた彼はボンシャンの抵抗を排除してムニルでロワールを渡河。12日にはアングランドで再びボンシャンと戦い、これを破って大砲2門を奪う。ボンシャンはサン=フロランからボープレオーを経由して退却。共和国軍はモンルヴォールに侵入し、ゴーヴィリエの制止にもかかわらず掠奪を行った。
王党派軍は4月下旬から攻勢に転じた。ゴーヴィリエの部隊は22日にボープレオーで王党派軍の反撃を受ける。彼らは頑強な抵抗を続けたが、包囲されそうになった時点で退却が始まり、ストフレとラ=ロシュジャクランの追撃を受けて敗走は恐慌状態に陥る。部隊はロワール河の北岸へ退き、一部はアンジェまで逃げていった(以上は主にDeniauの記述に拠る)。
6月にはソーミュールを落とした王党派軍の前進を受け、13日にアンジェを放棄。28日にブールボット、タリアン、テュローなど派遣議員らによって一時的に准将へ任じられる。7月18日にはヴィイエールの戦いに参加。30日には一時的にラ=ロシェル沿岸軍の将軍に任命される。
9月2日、ソーミュールの防衛体制整備の役を任せられる。マインツ部隊到着と伴に行われた9月の攻勢に参加し、18日のコロンでの壊走に巻き込まれた。30日、臨時執行委員会によって無能を理由に職権を停止され、軍と国境及びパリから20マイル以上離れた場所に移動するよう命じられた。ゴーヴィリエはブールジュに引退する。
後に公職への復帰が認められたが、以後軍で活躍することはなかったようだ。1814年時点でも生存していたことは分かっているが、死亡年は不明。ゴーヴィリエが軍務に携わった期間は極めて短く、その中心となったのがヴァンデ内戦であった。
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