「戦国の軍隊」

 パイクと火器の関連で日本の戦国時代の戦い方について調べたが、それの関連で「戦国の軍隊」"http://rekigun.net/published/details/book-15.html"を読んでみた。あくまでこの著者の見方に従うならばだが、なかなか面白い知見を得られた。
 
 著者の一番の主張は、戦国時代を通じて軍の「領主別編成方式」、つまり「軍役を賦課された領主たちがめいめいに兵士を連れて集合するのが原則であり、結果としてサイズも戦力もまちまちな部隊の集合体ができあがる」(p105)状態から、騎馬隊・鉄砲隊・槍隊といった兵種別の編成へシフトしていったということだろう。兵種別編成の成立は北条や武田といった東国の大名たちでは「永禄の初め頃(1550年代末)」(p134)には成立していた、と著者は指摘している。
 封建時代の軍隊であっても戦場で兵科ごとに編成して戦闘を行うという例は珍しくはない。西欧でも百年戦争の頃から重装備に身を固めた騎士たちがまとまって突撃する場面はあった。ただ、著者の主張は単に戦場で臨時に編成されたものではなく、最初からそういう編成をする前提で兵の動員が行われていたというものだ。いかにも封建的な軍事体制からより機能的で組織的な軍への移行は、おそらく西欧でも起きていたと思われるが、日本も同じだった。
 軍の組織化において大きな役割を果たしたのが、封建的動員に基づく兵力とは別の存在である傭兵たちだったことも、西欧と日本で共通しているようだ。西欧では中世末期の13~15世紀(鎌倉~室町中期)頃にイタリアでコンドッティエーレ("http://books.google.co.jp/books?id=mzwpq6bLHhMC" p417-419)が登場。スイス傭兵や南ドイツのランツクネヒトが活躍し、最後には傭兵隊長ヴァレンシュタインにまで至る傭兵たちの歴史が築かれた。現代の軍事用語にも傭兵組織由来のものがある。
 日本で傭兵に相当するものとして著者が指摘しているのが足軽である。著者は大名直属部隊の傭兵である「足軽」と、領主たちが兵種別編成に兵力を供給するために雇った「雑兵」を分けているが、基本的に彼らは同じ階層の人間たち、つまり食い詰めて傭兵になった連中だったようだ。そして訓練度合いに乏しい彼らを効率的に使うために集団戦向きの武器である長柄槍が採用された。
 前回調べた際には槍の集団使用を裏付ける戦国時代の史料がなかなか見つからなかったが、著者によれば1577年の北条家朱印状(p129)、1575年の上杉家軍役帳(p133)などが兵種別の軍役についてはっきりと記しているという(上杉家軍役帳はこちら"http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/uesugi-n/sugi907.htm"参照)。武田家の場合、年不詳だが1567~69年頃と見られる武田信玄陣立書(p134)にやはり兵種別の編成が記されているそうだ。戦国時代に鑓や長柄鑓がまとまって運用されていたのは確かだと見ていいんだろう。
 同じく鉄砲も数は少ないがまとまった編成がなされており、伝来後の間もない時期から兵種別編成の流れに組み込まれていたのは間違いないようだ。著者は弓矢より鉄砲が広まった理由として「人並みの膂力と視力を備えた者なら、誰でも戦力に加わることのできる兵器」(p143)としており、槍同様に簡単に使える点を重視している。ただ鉄砲が西欧ほど組織的に運用されたとまでは言っていない。マウリッツが行ったようなマスケット銃集団運用のための訓練は「日本では、近世に入っても(中略)なされた形跡はない」(p148)。
 そして、鉄砲と槍の連携についても著者は具体例を示していない。戦国時代になって作戦に相当する「行(てだて)」という用語がよく出てくるようになるが、その中身までは明らかにしていない。南北朝期から攻撃準備射撃としての「矢合せ」が歩兵の役割となったこと、あとは鉄砲の射撃が「侍部隊が突撃を発起する距離まで間合いを詰めるために有効だった」(p168)と推測している点くらいだ。あくまで白兵戦を支援するための事前射撃が役割だったという著者の指摘は、これまで私が書いてきたエントリーと平仄が合っている。
 もう一つ、戦国時代の陣立で参考になりそうと思われるのが、この本に紹介されているルイス・フロイスが1584年の沖田畷の戦いについて書いたものだ。「前衛、即ち軍勢の正面に、千挺近い鉄砲を伴ったが、すぐその後に、塗金の槍が続き、その後ろを長刀と、大筒の火縄銃の別の隊列、及び弓矢列が進んだ」(p145-146)というのがその内容。最前列に鉄砲、そのあとに槍という組み合わせは、これまで調べた陣立とも共通する面が多い。
 
 結局、西欧も日本も槍の集団運用と鉄砲の広範な活用という点では共通している。だが違いもある。西欧では槍と鉄砲の有機的連携が進んだ(そして最終的には銃剣の発明にまで至った)のに対し、日本ではそこまで戦術が進歩した様子が見られないことだ。鉄砲は陣地や砦に立て篭もった防御戦の時はともかく、野戦ではあくまで白兵戦の露払い的な使われ方にとどまった。スイスのパイク兵的な使い方までは進んだが、スペインのテルシオは生まれなかったように思える。
 軍に占める鉄砲の比率も、西欧に比べれば低い水準だった。鉄砲使用例として有名な長篠(1575年)でも織田軍3万人のうち鉄砲は多くて3000挺(p232)。一方、イタリア戦争においては1521年時点でプロスペロ・コロンナのミラノ守備隊は4万人のうち9000人がスペインのアーケバス兵であり、1527年にウルビノ公が率いた軍では2万9000人のうち約1万人がイタリアのアーケバス兵だった(The art of war in Italy"https://archive.org/details/artofwarinitaly100taylrich" p47)。信長より半世紀も前に信長の3倍前後も高い比率の銃兵を配置していたわけだ。おそらく全戦力の1割程度では、まだ銃を軍の主力にすることはできないのだろう。
 もう1つ、著者も指摘していることだが、戦国時代の日本で起きた軍事における革命は「社会構造の根本的な変革に至らなかった」(p254)。絶対王政も市民革命ももたらさず、あくまで封建制社会の再編成にとどまった「未完の軍事革命」だった。西欧と似た戦争形状を生み出し、似たような道筋を歩みながらも、やがて元和偃武と鎖国によって戦争状態が止まったことが一つの要因なのだろう。しかしそれだけにとどまらない気もする。
 西欧では中世末期から軍事における革命が封建諸侯の地位没落をもたらしてきた。長弓兵による重騎士の壊滅や、スイスやネーデルランドに代表されるパイク兵の活躍は、重装備の封建騎士が持っていた軍事的優位性を揺るがし、また大量動員された半素人たちが槍や火器などで十分な戦闘力を持っていることが判明するに従い、軍事専門家であったはずの騎士の立場がさらに危うくなった。
 でも日本の戦国時代は武士階級自体の没落にはつながらなかった。アザンクール"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Agincourt"やナンシー"http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Nancy"といった騎士階級の象徴的敗北と見なされるような戦いはなく、武者たちは互いの間で下剋上を繰り返しはしたものの、武者そのものが足軽傭兵で組織した長柄槍部隊や鉄砲部隊に惨敗する流れにはならなかった。あくまで内戦という、価値観がそう違わないもの同士の戦いだったからかもしれない。
 あるいは日本の地形が影響したとも考えられる。「戦場の缶切り」(p167)役を担った日本の武者たちが重武装で先頭に立って砦を襲撃したのは、西欧の重騎兵が果たした役割と同じ(The art of war in Italy, p67)だ。しかし西欧の要塞都市は日本の(戦国時代の)山城に比べれば圧倒的に規模が大きい巨大な土木工事の産物である。そうなったのは、日本に比べて平野部が多く広かったためではないか。山がちな日本では地形を生かした防御拠点が簡単に築けた代わりに地形の制約によって規模が小さくなったのに対し、西欧は多大な労力をかけて平野部に巨大な要塞を築く方向に進化したように思える。
 要塞の巨大化はおそらく火器伝来以前から生じていた出来事だろう。それに対応するため西欧では大砲の利用が一般化した。一方、戦国時代の終盤まで大きな城が存在しなかった日本では大砲より先に鉄砲が普及した。また、要塞で平野を埋め尽くせない以上、西欧では平野部の野戦で活躍できる騎兵のウエートが日本よりは高かったと思われる。日本でも西欧でも中世末期から騎兵が下馬して戦うのは珍しくなくなっていたが、それでも西欧の方が乗馬しての戦いに比重を置いていたようだ。結果として西欧では騎兵と歩兵との階級差がより強く意識され、重騎兵の敗北が「騎士階級そのものの象徴的敗北」になったのかもしれない。
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