火器の歴史 補遺

 火器の歴史に関して、いくつか落穂拾い的な話を。
 
 最古の砲、ここで言う砲とは「砲身の内径とほぼ同サイズの弾を発射する兵器」(世界を変えた火薬の歴史"http://www.amazon.co.jp/dp/456204912X" p65)のことだが、それを示していると思われるのが1128年に製作されたとされる四川省の像(Science and Civilisation in China, Volume 5, Part 7"http://books.google.co.jp/books?id=BZxSnd2Xyb0C" p581)であろうことは前に述べた。また発掘された砲として最も古いと考えられるのは黒龍江省で見つかった長さ34センチ、口径2.6センチ、重さ3.55キログラムのブロンズ製の銃(p290)で、1234年に滅んだ金の遺物と一緒に発見されたため、遅くとも1290年以前に埋められたものだろうと推定されている(p293)。
 Needhamの本ではこの銃の実在時期として1288年という年代を記しているが、その理由は元史李庭伝"http://zh.wikisource.org/zh/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7162"にこの年の出来事として選抜された兵たちが「火砲」を背中に背負って夜間に河を渡り、上流へ遡って「之」を「發」したという話が載っているからだ。砲という言葉は古くは投石器を意味していたため、それだけで「真の砲」があった証拠にはならないが、背中に背負えるような投石器がないことを考えるなら、この記録は銃か携帯型の砲であった可能性が高い。Needhamのこの推測が正しいのなら、これこそ世界最古の野戦における銃砲の使用記録ということになる。
 
 ただしNeedhamの文章をそのまま信じていいのかどうかは別だ。彼はもう一つの「最古の銃砲使用例」として元寇がそうである可能性も指摘している(Science and Civilisation in China, Volume 5, Part 7, p294-295)のだが、彼がそこで証拠として取り上げているものがこれまた実に危うい。
 まず彼は「日本國辱史」なる西暦1300年頃に書かれた本に「火銃」という言葉が多数出てくると指摘している。だが日本國辱史で検索しても見つかるのは1920年に書かれた「大日本國辱史」"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/961020"なる本だけ。確かにその中には元寇の話も載っているし、「武器なども銃があり」(p38)という文言も見かけるが、この本が1300年頃に出来たなどということはあり得ない。そして英語の"nihon kokujokushi"で検索するとNeedhamの本しか見つからない。本当にこんなソースがあることが確認できない限り、頼らない方がいいだろう。
 次にNeedhamが紹介しているのが八幡愚童訓"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E6%84%9A%E7%AB%A5%E8%A8%93"。Needhamはそこからの引用として、鉄砲が「撃った時(when fired)に閃光と大きな音をもたらした」(p295)と書いている。だが日本語では「飛鉄砲、暗くなし、鳴り高ければ迷心失肝、目くれ耳塞て」("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897740" p881)という文言となり、射撃した時とは言い切れない言い回しとなる。そして八幡愚童訓の元ネタになった八幡ノ蒙古記には「あたりおちて、わるゝ時、四方に火をとはし、火烟を以て、くらます」(元寇"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87" 脚注164)とある。英語でfiredと言われれば弾丸が撃ち出された時を想像するが、実際は落ちて割れた時と書かれているのだから、これは銃砲ではなく炸裂弾、つまり震天雷"http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%87%E5%A4%A9%E9%9B%B7"を示すと見るべきだろう。
 Needhamの示す第3の論拠は太平記だ。彼によればそこには「鐘[bell]のような形をした鉄砲」という言葉があるらしい。欧州に残された最古の銃砲に関する図"http://en.wikipedia.org/wiki/Walter_de_Milemete"を見ても分かるように、初期の銃砲は花瓶や鐘のような形をしていたと言えなくもない。だが残念ながらこれも間違い。太平記に書かれているのは「鉄炮とて鞠の勢いなる鉄丸の迸る事、下坂車輪の如く、霹靂する事、閃々たる電光の如くなる」("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877602" 82/97)という文章だ。鞠と鐘では違いすぎる。
 そもそも元寇に関しては震天雷の実物が沈没した元船から発見されている"http://www.city-matsuura.jp/www/contents/1379132759826/index.html"。Needhamが本を書いたときにはまだ発見されていなかったため仕方ない面もあるが、それでもてつはうの現物が見つかっている一方、銃砲らしきものが海底から引き揚げられていない現状を踏まえる限り、元寇を銃砲最古の使用例と見なすのはやめた方がいいだろう。
 
 それとは別の「もっと古い例」がネット上にもある。日本語wikipediaの大砲"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A0%B2"に書かれている「中国では1259年に南宋の寿春府で開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が最も早い」というやつだ。元ネタはおそらくこちら"http://www.geocities.jp/fukura1234/heikijiten/heikikaisetu/kahou.htm"だが、これまた間違い。何が違うかというと名称が間違っている。
 宋史巻197"http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7197"にある文章を読むと「開慶元年、壽春府(中略)又造突火槍、以世竹為筒」とある。つまり実火槍ではなく突火槍"http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E7%81%AB%E6%9E%AA"が正解。この突火槍は木製ではなく竹製で、節の中に火薬と弾を詰めたものだ。竹の砲身だと耐久力から考えても本当の火器ではなく、火花と一緒に陶器の破片などを撃ち出したものだと考えるのが妥当だろう。
 それよりは考慮に値しそうなのが、元軍が南宋を攻めた時の話だ。こちら"http://big5.jb.mil.cn/SuniT/www.jb.mil.cn/jszt/gbbtg/201212/t20121212_8375_4.html"では1274年の出来事として、元史巻127の伯顔伝"http://www.angelibrary.com/oldies/yuanshi/127.htm"にある「乃親督帳前軍臨南城、又多建火砲、張弓弩、晝夜攻之」という文章から、ある種の火器が使われたのではと示唆している。野戦ではなく攻城戦であるが、李庭の事例(1287~88年)より古い点は気になるところだ。とはいえこれが投石器でないと断言するには記述が曖昧である。
 
 具体的な使用例がどれであるかはともかく、通説では中国こそが火薬や火器を開発し最初に使用した地域である点で一致している。だが一部には異論もある。典型例がAhmad Yousef al-Hassanだろう。彼はその著作"http://books.google.co.jp/books?id=hV2OQgAACAAJ"の中で、特にイベリア半島を中心としたイスラム世界で早い時期から火器が使われていたと主張している。
 だがこちらもまた危うい説のようだ。Guns for the Sultan"http://books.google.co.jp/books?id=dNqzjfWABSAC"は「イスラム諸国における初期の火器利用への言及(1204、1248、1274、1258-60、1303及び1324年)は、中世後期のアラブ語文献における火薬と火器の用語使用が混乱しているために、注意深く扱う必要がある。加えてこれらの証言は大半が15世紀の歴史家によるもので、彼らの用語使用は彼らが書いている時代の出来事よりも彼ら自身の時代を反映しているだろう。David Ayalonはマムルーク朝に砲兵が現れたのはやっと1360年代になってからと結論づけているが、最近の研究はまだ証拠が決定的ではないものの、1320年代と1330年代におけるグラナダの攻城兵器は適切に大砲と訳せるだろうと示唆している」(p15)としている。
 つまりイスラムの火器も欧州と変わらない時期に使われ始めたというのが一般的な見解であり、13世紀から明白な使用例があるという指摘は用語の使い方に問題があるという指摘だ。Needhamも砲という言葉に注意を払ったうえで1288年には銃砲が使われたと結論づけているが、イスラム圏における古い火器の使用を主張する論者はそのあたりが厳密でないと思われているのだろう。
 もう一つの理由として、Kenneth Chaseは初期の使用例とされるものがイベリア半島に多い点に疑問を呈している。「最も早い日付は極めて疑わしい。いくつかは欧州及び中東における最も早い火器への言及に先行している。火器がそこで発明されたのでない限り、そしてこれらの日付以外にグラナダで独立して発明された証拠はないのだが、火器が欧州も中東も経ずにどうやってグラナダに到着したのか理解しがたい」(Firearms, p234)。
 Chaseが指摘しているのは全体的な通説との整合性だ。個別の論点ならもっともらしく聞こえる議論であっても、大きな視野で見ると他の説と矛盾しまくってしまう場合、その説の蓋然性は低くなる。よくトンデモ説として紹介されるもの(進化論否定論、相対性理論は間違っている論など)なども全体的な自然科学に矛盾する議論を展開するところが最大のツッコミどころとなっている。その説を成立させたければ、自然科学全体の理論をひっくり返す必要が出てくるためだ。al-Hassanらの説もそうした問題を孕んでいる以上、(Needhamがやってのけたような)既存の通説を転覆できるだけの多大な証拠を揃えない限り、蓋然性の低い残念な説という立場から抜けることはできないだろう。
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