パイクと火器 その5

 承前。戦国時代の鉄砲とパイクの使い方について、使用法や陣立てを書いている史料はどこまで遡れるのか。古事類苑などでも分からなかったこの問題について解答を記していたのはこちら"http://kagiya.rakurakuhp.net/i_470889.htm"のページ。文禄・慶長の役で朝鮮側に降った日本側の関係者が、朝鮮に戦争の訓練方法や陣法を知らせていたというのだ。
 元史料となるのは朝鮮王朝実録。残念ながら日本語サイトでは全文閲覧できるところはないので韓国のサイトを調べに行くしかない。まさかハングルまで見ながら探すことになるとは思わなかったが、それでも探して発見することに成功。こちら"http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp"にある第14代宣祖実録に、件の文章が間違いなく載っていた。
 降伏した日本軍人が伝えたことが確実なのは宣祖29年(1596年)2月17日の記事。上記のサイトで言えば2番目の呂汝文が説明したやり方だ。彼が説明した戦法は「負旗者居前、持鳥銃者次之、持槍劍者又次之、整齊成列、而左右又巧設奇兵。毎於臨戰之時、負旗者擺列於左右、而持銃者放砲、持槍劍者、乘氣勢而突進、左右擺列、負旗之軍、又繞出兩邊、與左右伏兵、圍繞敵後」というものである。
 最前列が旗持ちで、2列目が銃兵、3列目が槍や剣の白兵戦用武器を持った兵士となっており、左右に奇兵(予備の伏兵か)を置く。戦闘が始まると最前列の旗持ちが左右に分かれ、その背後に隠れていた銃兵が射撃を行う。それから槍や剣を持つ兵が機を見て突進し、左右に分かれた旗持ちと左右の伏兵は敵の両脇や背後を囲む。旗持ちで隠していた銃兵が現れて射撃を行うあたりはイタリア戦争時のブレシア襲撃(Art of War in Italy"https://archive.org/details/artofwarinitaly100taylrich" p50)で使われた手法と似ているし、フランス革命戦争期にも使われていた。誰でも思いつく手なんだろう。
 呂汝文が降伏してきた日本人であることは宣祖28年6月19日の記録に明示してあるので、これが日本軍人の知っていた手法であることは間違いない。そしてこの時の日本軍は戦国時代を通じて鍛え上げられてきた戦争ノウハウを活用していたと見られる。だから呂汝文の説明した戦い方は戦国時代の手法と見るのが妥当だろう。飛び道具が先に相手を叩き、後に白兵戦に突入するというやり方は、足利季世記に載っている舎利寺合戦とも共通する。脇に置かれている「奇兵」は、兵法雄鑑で左右にも銃兵を置いていたことを思い浮かばせる。
 もう一つの記録は宣祖27年(1594年)3月25日のもので、李氏朝鮮の官職で軍事を担当していた兵曹が、訓練都監の練習について「鳥銃左、右司各一哨(官)、殺手左、右司各二哨、以此合爲一營、設陣進退、疏其行列、迭爲出入。若使射手各一哨、居鳥銃之後、殺手之前、敵至最遠、則以鳥銃制之、次以弓矢繼之、迫近者、以長短相制、則各樣器械、無不兼具、而軍心有所恃矣」と述べている。
 特徴的なのは軍を左右に分けていることで、それぞれ最前列には銃兵、その後には白兵戦部隊が続き、左右がそれぞれ交互に進むことになっている。弓の射手がいれば銃兵の背後、白兵の前に置き、まずは銃が、次に弓が射撃し、接近したところで長短の武器(槍と刀か)でこれを制するとしている。並び方まで含めて佐藤や林の説明と非常に似ているんだが、残念ながらこの練習が日本人の手によるものかどうかは明確に書かれていない。この時期に銃の使い方を教えられるのが日本人だった可能性はあるが。
 以上が、16世紀以前に確認できる当時の日本軍の戦い方だ。特徴的なのは、銃を含む飛び道具があくまで遠距離用兵器と規定されている部分だろうか。もちろん当時の銃が装填に時間を要するという、近距離戦では致命的な弱点を持っているのは確かだが、それを運用で工夫しよう(つまりパイクで守ろう)とした様子は窺えない。呂汝文が「持槍劍者、乘氣勢而突進」と述べているように、訓練都監の演習が「迫近者、以長短相制」となっているように、より近距離では銃兵でなく槍や武者といった他の手段で戦うという割り切りの方が目立つ。
 言わばイタリア戦争開幕当初のスイス軍が「戦いを開始する散兵として[銃兵を]使った。それは補助的な武器で、戦闘結果に決定的影響を及ぼし得るものではなかった」(Art of War in Italy, p33)と見ていたのと同じようなスタンスだ。一方で槍と武者との区別はかなり曖昧。佐藤や林の説明では槍はあくまで武者が突撃する前のぶつかり合いを支える役目を負っていると見なされていたが、これらの記録を見る限りそこまで厳密な役割分担はなかったと感じられる。
 
 要するに戦国時代の日本は西欧ほどパイク+火器戦術が成熟していなかった、というか火器の役割が従属的な立場にとどまっていたという結論になる。白兵戦でケリをつけるための前座という、スイスのパイク兵全盛期と同じ使われ方が中心であり、テルシオに代表されるようなPike and Shotという戦術が明確に確立していたとまでは言えない。それが固まる前に戦国時代が終わったため、江戸時代に入っても佐藤や林のように「距離に応じた役割分担」以上の議論が展開されなかった。
 ……という結論でいいのか。この見解に対する反論はないのだろうか。あることはある。こちら"http://fpj.fc2web.com/farm33.html"では薩摩の合伝流兵法に関する文献からの引用として「天正以前の戦法は、鎗を入るゝきをひのために鉄砲を用るなり。故に鉄砲は鎗の介けに用る」ものだったのが、その後は鉄砲の運用が進み「朝鮮陣よりこのかたにて、大坂・嶋原の役盛んに用たるに近し」と書かれている。補助的な武器ではなく、文禄慶長役以降は戦闘の主力になっていったとの主張だ。
 20世紀にまとめられた薩藩の文化"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1233473"には「島津軍は火戦を以て戦闘実行をなす」(p75)とある。この本の主張によれば天正年間から薩摩藩では火器を使った戦法「関狩」が開発されていたそうで、前進しながら3つのグループが交互に射撃を行う「繰り詰め法」などを使って間断なく射撃を行ったという(p87-88)。また接近戦になった場合、殺手隊は陪卒に持たせている武器に持ち替えて白兵戦に転じ、他の銃兵は側面から援護射撃をしたんだそうだ(p91-92)。
 問題はこうした戦術を記している「合伝流兵学」なるものの成立時期が江戸時代後期と、戦国から遠く離れた時代にあること。こちら"http://373news.com/_bunka/jikokushi/75.php"によれば合伝流を始めた徳田邑興の死亡年は1814年となっており、既にPike and Shotどころか銃剣と燧石式マスケット銃のナポレオン戦争末期だ。この時代になれば銃が主力兵器になっているのは当たり前。こちら"http://kagiya.rakurakuhp.net/i_470889.htm"では合伝流について「18世紀の西洋の戦術思想の影響を受けて創作されたのではないか」との疑問を呈している。
 いずれにせよこれまでも述べてきたように、江戸時代の書物を論拠に戦国時代を語るのは避けた方が賢明。まして江戸時代後期となると当てにすべきでない。17世紀前半までなら大坂の陣や島原の乱もあるし、かろうじて許容できる範囲だろうが、合伝流はいかにも遅すぎる。薩藩の文化という本に、合伝流以外の島津軍戦闘方法に関するソースが示されていないのも致命的だ。関狩とか繰り詰めなるものも、もっと古い史料にあることを確認しなければならないだろう。
 
 もう一つ、文禄慶長役の頃に銃が既に主要な役割を担っていたと主張できる論拠になりそうなのが「高麗国出陣武者分備定」("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936480" p449)。名前の通り、遠征に参加する部隊の編成を記したものだが、こちら"http://sakigakesamurai.blog46.fc2.com/blog-entry-622.html"で指摘されているように、直臣の兵科を見ると鉄砲が圧倒的に多く、槍が全くない。もちろん直臣以外に陪臣など1万人近くも同行しており、彼らの中には長柄槍を持った兵もいたと思われるが、それでも槍の重要性がかなり低く見られていたことは確かだ、と主張はできるだろう。
 加藤清正は遠征動員に当たって「てつほうの者一人つゝも可抱置候、国中昔之奉公人悉かりいたし、てつほう五百丁・千丁にても早々可差渡候」("http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/25861/3/BR0073_001-029.pdf" p24)と国許に書き送っていたという。彼ができるだけ多くの鉄砲を揃えたいと考えていたのは事実だろう。ただ数を増やすことと、火器を使った組織的な戦闘を行うことはイコールではない。西欧でも時とともに火器の割合が高まりより決定的な使い方がなされるようになったことを踏まえるなら、日本でもそうした流れが戦国時代において生じていた可能性はあるだろう。それが欧州ほど極端に進む前に平和が訪れた、と考えればいいのだろうか。
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