パイクと火器 その4

 承前。戦国時代におけるパイクと銃との連携の実態はどうだったのか。その前にまずは鉄砲伝来について少し言及しておく。
 一般的に信頼できる史料とされているのは鉄炮記("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543961" 9-14/66)だ。それによれば日本に鉄砲が伝わったのは天文年間の1543年となるが、ポルトガル側の史料を見ると微妙に年代がずれている。またそれ以前から伝わっていたとの説もあり、例えば国朝砲熕権輿録には甲陽軍鑑にも記されている大永6年(1526年)に武田家に伝わった説、北条五代記にある永正7年(1510年)日本伝来説などが紹介されている(古事類苑武技部15"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897740" p882-883)。鉄砲と言っても初期のものはポルトガルからの火縄銃ではなく、中国製のもっと古い火器だったとの説もある。
 林羅山が「兵器之有利者、莫如鉄砲」と述べたこの鉄砲だが、使い方についてはあまり史料が見当たらない。武具要説(古事類苑武技部15、p889)には「鉄砲は遠き物を打に無双の道具なり」「城に籠りたる時重宝也」と利点を記している一方、「難儀は雨降りにあつかわれぬ」「少々の内、火の通ぜぬ事有之物」「又矢次のおそき物也」といった弱点もきちんと指摘している。結果として「近き勝負を鉄砲にて仕は、危うき事也」と指摘している。接近戦に課題があったことは認識しているが、その際にどう対処すべきかは書かれていない。
 明良洪範には「組の者に、鉄砲を打する、兎角敵の上へを玉が越す也、神君御覧有て、左の手を、もっと延よと上意度々有しと也」("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/990298" p162)という記述がある。銃弾が敵の上方にずれるという現象は西欧の記録でも数多く見られる。それだけリアリティを感じる文章だが、明良洪範自体は江戸時代の文献なので慎重に見る必要はある。
 また明良洪範続には「鉄砲を打せ候時は、仮令敵五間十間遠く候とも、木陰ある所に置て打せ申すべく、左様に致し候得ば、此方に手負是なく候、何も知ざる衆は、少し成とも近くと存じ、敵より見はらす所に置候故、さんざんに打るる者にて候」「手負二三人も候得ば、此方崩るる物にて候、鉄砲の当り、五間十間遠く候とも、同じ事にて候」(p475-476)との記述もある。これが正しいとしたら、銃兵については戦列歩兵的な使い方ではなく散兵としての使用を考えていたようにも見える。
 
 以上、そもそも同時代の史料が少ないうえに、江戸時代まで範囲を広げてもあまり参考になるものがない。何よりパイクと銃の連携についての言及が見当たらないのが困り者だ。ではどうするか。銃や槍の使い方を個別に調べるのではなく、戦闘全体について語っている史料はないのだろうか。
 古事類苑兵事部12"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897727"には、鉄砲伝来後の戦闘について「即ち、その法たる、鉄砲、弓、長柄、武者の四段に備え、彼我相接する凡そ二三町[200メートル強から300メートル強]にして先ず銃を発ち、半町にして弓を射、十三四間[25メートル前後]にして長槍を用い、最後に機を見て短兵急に接せしむ」(p507)という書き方をしており、これが当時のパイクと火器との連携を示すものとしている。
 古事類苑が佐藤信淵の兵法一家言"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460529"から引用しているのはおそらく間違いないだろう。「敵間二三町程に迫れば、鉄砲を打始め、其れより半町程に詰る迄の間は、何れも鉄砲を専らに用い、半町内より十三四間に迫る迄は、専ら弓の挊り合、其れより長柄の槍を打ち合いて、甲乙の出来るに及で武士も進み戦いて、ついに勝敗を決着する」(p221)と、書かれている距離まで全く同じだ。問題は佐藤が18~19世紀とかなり新しい時代の人物であること、ここに紹介されている戦法が「今時流行の諸兵学」であることだ。戦国時代のものとは限らない。
 兵法一家言より有名でほぼ似たような話を載せているのは、林子平の海国兵談"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922355"。第2巻の「陸戦」の項目に「鉄砲、弓、長柄、武者の四段に立て六十間より三十間程まで鉄砲にて挊合、夫より十五間に詰るまで弓挊合、夫より長柄の挊合にて鼻突になりて、其処で武者の勝負と切組」(p47)と記されている。佐藤の本より距離感はリアルだが、海国兵談もまた18世紀後半の書物であり、やはり戦国時代の合戦の証拠とするには厳しい。
 
 戦闘ではなく陣立てに注目する手はどうだろうか。兵科をどう布陣するかは、それぞれの兵をどう使うかを視野に入れて行うものだ。例えばネットには絵巻物を使って当時の部隊配置を推測しているものがある"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99"。「備」と呼ばれる陣立ては兵科ごとに配置がある程度決まっていたようで、最前列には弓や鉄砲が多く、槍や場合によっては騎馬がその背後に配置されている。大将やその近習は後ろに控え、最後列に荷駄隊がいるというパターンだ。とはいえソースになっている絵巻物は基本的に江戸時代に描かれたものであり、そのまま信用するのは難しいだろう。
 絵巻でなく文献資料としては、例えば兵要録"http://hagilib.city.hagi.lg.jp/hagilib-archive/image/26.pdf"なる本がある。そこでは「一隊行列之制」として先頭から銃手、弓手、甲士と長鎗手(隊長なども含む)、旗、馬という順番で並ぶ図が描かれている。佐藤や林が書いている並びとほぼ同じだが、この兵要録もまた江戸時代の書物。著者である長沼宗敬"http://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E6%B2%BC%E5%AE%97%E6%95%AC"は17世紀生まれの人間であり、これが戦国時代のやり方だったかどうかはやはりわからない。
 もう1つ、兵法雄鑑"http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-091502"という文献にも陣立てが書かれている。そこでは2万5000人の兵を方円八陣座備なる陣に配置する方法を図入りで説明している(230/418)のだが、500人で構成されている1つの備は最前列に「足軽備者可小連」が、2列目に「長柄」があり、両脇に「持筒足軽」がいるという配置になっている。いつものように最後列は馬だ(231/418)。最前列の足軽が何の武器を使っているかは不明で、鉄砲の仕事はこれだけを見ると両側面からの支援とも思える。
 同書ではその後に五行座備という「五十騎六十騎ばかり一備に用る時」の陣立ても説明している(234/418)。これまた先頭は単に「足軽大将」が率いる部隊となっているだけで、どんな武器を持っているかは図には載っていない。しかし続いて書かれている「五行座備作法五ヶ条之事」の中には、足軽について「小連につらなりて弓を射、鉄砲を放すとも、かたみに放して、矢つかい、薬込の間をまったくすべし」「小連につらなる時のけいごは、足軽大将の与力侍なるべし」(235/418)という文章がある。足軽大将の率いる「小連」つまり小規模にまとめた散兵的な部隊の武器は、弓や鉄砲だと想定していいだろう。
 だとすれば最初の方円八陣座備で最前列に配置されていた「足軽備者可小連」もまた弓や鉄砲を持った散兵足軽と見なすのがおそらく妥当。側面の「持筒足軽」も含め、部隊の周囲を守るように飛び道具が配置されていたと考えられる。最前列から鉄砲、弓、槍、武者といったシンプルな配置ではないが、それに近いものがここに記されている。ただ、残念ながらこの兵法雄鑑も17世紀半ばの江戸時代に成立した書物"http://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E5%85%B5%E6%B3%95%E9%9B%84%E9%91%91%E3%80%8B"。厳密な信頼度には欠ける。
 
 以上、戦国時代の話を探しているのに見つかるのは江戸時代の本ばかり。果たして戦国時代まで、少なくとも16世紀まで遡れる史料はないのか。長くなったので以下次回。
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