パイクと火器 その3

 パイク+火器について、これまで西欧の事例を調べてきたが、ChaseのFirearms"http://www.cambridge.org/us/academic/subjects/history/regional-history-1500/firearms-global-history-1700"によればOuter Zoneは西欧だけでなく日本も含まれる。つまりラーガーでなくパイクと火器の組み合わせが一般的であったのは日本も同じ。実際、Chaseは信長が「長さ18から21フィート[3間から3間半]という、特に長いパイクを好んだ」(p180)との有名な話も紹介している。
 ちなみにChaseはパイクの古い事例が1300年代前半まで遡るとしており、その論拠に挙げているのが新井白石の「本朝軍器考」"http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2565183"。白石によれば鑓の初出は太平記に書かれている1335年の三井寺合戦(36/45)。ただし最近ではもっと古い例も見つかっているようで、例えば津軽に勢力を持っていた曽我氏の史料によれば、三井寺合戦の1年前に矢木弥二郎なる人物が「以矢利被胸突半死半生候了」("http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3187/1/HirodaiKokushi_104_98.pdf" p100)と槍で重傷を負っている。鎌倉末期から槍が存在したことはおそらく間違いないだろう。
 実際にはこの「槍」という記録の登場以前にも同系の兵器はずっと古代から存在していた。矛と呼ばれる武器がそれで、人によっては槍と矛には形状の違いがあるとの見解もある"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%9B"が、そうではなく単に古い時代に矛と呼ばれていたものが後に槍と呼ばれるようになっただけとの意見もある"http://www4.kcn.ne.jp/~hozoin/ubu0902.html"。古くは新井白石が「[鉾と鑓は]少も異なる所無之然ればほこと云は古名にしてやりと云は新名にして異名同実なり」(同)と指摘し、同じ武器だと認識している。
 問題はこの初期の「鑓」がパイクと呼べるかどうかだ。白石の本もそうだし、古事類苑の兵事部33"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897732"も同じだが、三井寺合戦に出てくる槍には長さが書かれていない。1348年の住吉合戦で初めて初めて槍の長さへの言及があるのだが、それによれば「柄の長さ一丈ばかりなる鑓を馬上に執たる事」(兵事部33、p1502-1503)と書かれている。3メートルってのは結構長いように思えるが、馬上で使った槍だとすればこれはいくら長くてもパイクとは呼べない。1300年代前半をもってパイクの登場と決めていいのかどうかは難しいところだ。
 実際、西洋のパイクに劣らない長さの歩兵用の槍がいつ登場したかは今一つ不明だ。鎌倉末期が無理でも応仁の乱の頃にはあったのではないかとの記述がネット上では見かけるのだが、論拠がよく分からない。例えば(16世紀に描かれたもののようだが)真如堂縁起絵巻に描かれている応仁の乱の足軽は、身長を少し上回る程度のパイクというには短すぎる槍を使って建築資材の略奪を行っている"http://www.mokuzai-tonya.jp/05bunen/zuisou/2008/nihontou/09.html"。パイクの登場がいつかを特定するのは、どうも簡単ではなさそうだ。
 
 それでも戦国時代にはパイクが登場していたのはおそらく間違いない。大坂の陣の様子を描いた「長沢聞書」には当時の流行として「鑓は、大かた二間半、三間柄にて候」(古事類苑兵事部33、p1508)と記しているし、16世紀から大坂の陣直後までを記した松原自休手録には「三間柄を取直し」(p1508)という記述がある。荒山合戦記、信長公記といった文献にも三間や三間半という記述があり、16世紀に高坂昌信が記したとされる武具要説にも「二間より短きは詮なき事に御座候」(p1509)とある。
 間という長さの単位は時代や場所によって一致していなかったので、これらのパイクの長さがどの程度であったかを正確に定めるのは難しそう。太閤検地の時には1間は6尺3寸(およそ190センチ)とされたそうで、一応これを参考にするのなら3.8メートルより短い槍はパイクとしては使い物にならず、一般的には4.75~5.7メートル、長いもので6.65メートルの槍が使われていたという計算になる。Chaseによれば欧州のパイクは4.2~5.4メートルとなり(Firearms, p62)、日本の槍と同じ程度か少し短いくらいだったようだ。
 ちなみに日本の戦国時代について、騎馬に乗っていた武士が戦闘時に下馬したかどうかという議論がある。ただこの議論もどちらか一方だと決めつける「オールオアナッシング」な考えはおそらく無益だ。実際には下馬するときもしないときもあったと考える方が妥当だろう。少なくとも武具要説で槍を長くすべき理由として「第一短しては馬武者がつ[突]かれぬ物にて御座候」としている点からも、馬に乗ったまま戦う武士がいたことが分かる。
 
 戦国時代に丈のあるパイクが存在していたこと、それを使う理由の一端に対騎兵戦のためという背景があったことはおそらく事実だろう。だが実際にパイクはどのような使い方をされたのか、もっと言うならパイクは本当に組織的な集団戦用の武器だったのか、それを確認できる資料はあるのだろうか。
 槍の使い方として「鎗ざく[柵]鎗ぶすま[衾]」と明確に記しているのは兼貞斎筆記("http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920331" p278)である。そこには「三十本四十本五十本にても一行に並」とか「奉行は乗廻り声を掛け(中略)下卒の心の離れぬ様に気を附る事」とも書かれており、集団で戦う兵を上官が指揮する様子がはっきりと描かれている。問題は、この兼貞斎筆記が書かれたのが「寛永辛未」(1631年)であること。元和偃武の後であり厳密には戦国時代とは言えない。ただ大坂の陣から数えて20年未満であり、おそらくまだ戦争経験者が大勢生き残っていた時代であるため、全くの絵空事とも言い切れない。島原の乱より前でもあるし。
 奥羽永慶軍記は成立年代がもっと新しく(1698年)、戦国時代から100年近くが経過しているために、さらに頼りにならない史料だろう。一応そちらには「五百人と鑓先を揃いて戦たり、横手方には兼て名を得し長柄組十八人一陣に進み、鑓長刀をいわせず、八方厳しく切て廻る」(古事類苑兵事部10"http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897726" p459)という、それなりに組織立った戦い方に見える文章が存在するが、いかんせん史料の成立時期が新しいため扱いづらい。
 成立年代が不明だが、足利季世記"http://books.google.co.jp/books?id=a1mI7EZOs7QC"という記録がある。明暦の大火(1657年)で一部の巻が失われたという書物で、焼失する前は姉川合戦(1570年)頃までは書かれていた(p264)というので、16世紀終盤から17世紀前半にかけて成立した史料であろう。厳密に言えばこれも時期的に微妙な史料だが、兼貞斎筆記と同じ程度には参考になるだろう。曰く、1547年の舎利寺合戦において「爰(ここ)にて行合両方矢軍を止め相かかりに懸る、三好より畠山総州と松浦肥前守の手一番に進み、互にやり合の数刻の戦なり、両方の鑓数九百本のせり合有、近代無双の大せり合なり」(p192)とか。先に射撃戦を行い、その後で白兵戦に移ったという意味では、ある程度組織だった戦闘が行われたのだろう。
 おそらく一番もっともらしい史料は上杉輝虎注進状。輝虎即ち上杉謙信が出したとされるその中に「輝虎先手の兵共槍衾を作」("http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2576264" 31/64)という文字が書かれている。この史料がフェイクでなければ、戦国時代だった16世紀の時点で既に槍衾という用語があり、おそらくは組織的に戦いが行われていたことを示す証拠になる。問題はこの文献について「上杉謙信が大館常興にあてたとする偽作文書」"http://www.amazon.co.jp/dp/4840631328"と指摘する向きがあること。だとしたらあまり当てにしない方がいいかもしれない。
 
 以上、色々と探してみたが、戦国時代にパイクを使った組織的な戦いをしたと窺わせる事例はあったものの、決定的な証拠はなかなか見つからなかった。もちろん探し方が足りないだけという可能性は十分あるし、そういう事例を知っている人がいれば教えて欲しいくらい。普通に考えて5メートル前後もある槍を使って個人技に頼った戦い方ができるとは思えないんだが、明確な証拠がないのは困ったところだ。
 もっと困るのはパイク兵と銃兵との連携についての証拠探し。Chaseの議論はパイク兵が組織的に戦っていたことを前提に、そのパイク兵と新しい火器との連携がOuter Zoneで進んだという主張なのである。だから戦国時代の長柄槍兵と火縄銃兵が、フス戦争におけるラーガーと火器のように有機的に連携しながら戦ったという記録が欲しい。その調査結果については長くなったので次回に。
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