祖国は危機にあり(La patrie en danger) 関連blog
パイクと火器 その1
2014
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02
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06
火薬・軍事革命
まずは訂正。こちら"
http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/54430914.html
"でフス派のラーガー戦術をオスマン帝国に伝える役割を果たした存在としてハンガリーの黒軍を紹介したが、それより前に対オスマン戦にラーガーを取り入れた人物がいた。マチャーシュの父親、フニャディ・ヤーノシュ"
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Hunyadi
"である。
彼は1443-1444年の対オスマン遠征に600台のワゴンを用意し、ボヘミア傭兵がその運用に携わったという。「おそらくこれがオスマン軍が戦闘用ワゴンが作戦しているのを見た最初の機会だろう」と、The Heirs of Archimedes"
http://books.google.co.jp/books?id=aBapOB93lE0C
"は指摘している(p112)。Guns for the Sultan"
http://books.google.co.jp/books?id=dNqzjfWABSAC
"も「これほど大群の武装ワゴンの活用とヴァーゲンブルク戦術は、スルタンの将軍たちと兵士たちにかなりの衝撃であった筈だ」(p18-19)と記している。
驚きなのは、オスマン軍がこの戦術にかなり短期間で対応してしまったこと。オスマン側の年代記にそのように書かれており(p19)、そして実際に1444年にはヴァルナの戦いでフニャディがあっさり敗北し、ハンガリー王が戦死している("
http://books.google.co.jp/books?id=mzwpq6bLHhMC
" p400)。ナポレオン戦争期のオスマン軍のだらしなさに比べると月とすっぽんだ。いずれにせよラーガー戦術の系譜はフス派→フニャディ→オスマン帝国と続いたのだろう。
Kenneth ChaseがFirearms"
http://books.google.co.jp/books?id=esnWJkYRCJ4C
"の中で指摘しているInner Zone(フス戦争などの東欧、オスマン帝国、ムガールなど)での流れ、つまりラーガー+火器という戦術がどう広まっていったかは分かった。ではパイクと火器の組み合わせ、つまりPike and Shot"
http://en.wikipedia.org/wiki/Pike_and_shot
"が一般的だったOuter Zone(西欧や日本)では、どのように戦術が始まり、広がっていったのだろうか。
その前にパイクの歴史を。こちらもラーガー同様、紀元前まで遡ることは言うまでもない。有名な例はもちろんマケドニアに代表されるファランクス"
http://en.wikipedia.org/wiki/Phalanx_formation
"で、サリッサ"
http://en.wikipedia.org/wiki/Sarissa
"と呼ばれた槍の長さは6メートルに及んだという。
ちなみにパイクと飛び道具という組み合わせ自体も紀元前からあった。例えばクセノフォンのアナバシス"
http://books.google.co.jp/books?id=b3s-AQAAMAAJ
"には、ロードス島人を集めて投石部隊を作る話がある(p190)。遠距離から相手にダメージを与えられる飛び道具部隊が攻撃を担当し、接近戦には弱い彼らを長柄の武器を持った部隊が守る。おそらく誰でも考えつく手段なのだろう。
火器が登場した中世末期でも、バノックバーンの戦い"
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Bannockburn
"におけるシルトロン"
http://en.wikipedia.org/wiki/Schiltron
"、金拍車の戦い"
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Golden_Spurs
"、さらにモルガルテンの戦い"
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Morgarten
"など、パイク兵が騎兵相手に勝利した事例はいくつもある。Charles Omanによれば1100年ごろには既にネーデルランドの歩兵がパイクで武装していた(A history of the art of war, the middle ages from the fourth to the fourteenth century"
https://archive.org/details/historyofartofw00oman
" p374)そうなので、火器が欧州に入る以前からパイクを使う流れは存在していたと見ていいだろう。
だがPike and Shotの流れはラーガー戦術ほどシンプルにまとめることは難しそうだ。そもそも長柄武器と火器の組み合わせだけ見れば、フス戦争の時代において既にフレイルが火器とともに使われている。だからと言ってジシュカをPike and Shotの導入者だと主張するのは無理があり過ぎるのは自明。別の時代、別の場所に由来を求めるべきところだろう。
そう思って探してみると、実はかなり早いタイミングで火器とパイクの同時使用例が見つかる。1386年のセンパッハの戦い("
http://books.google.co.jp/books?id=TUNauRscYQUC
" p101)で、長柄武器で有名なスイス軍が「いくつかのハンドガンを使ったと伝えられる」"
http://xenophongroup.com/montjoie/gp_wpns.htm
"という文章があるのだ。こちら("
http://books.google.co.jp/books?id=mzkv1CYvkIYC
" p22)にも、ハンドガンの記録がセンパッハに遡るとの一文がある。
つまり結論としては、フス戦争より前にスイス人がPike and Shotを始めていたことになる。実際にはこの時のスイス軍が使っていたのはパイクというよりハルバードだったらしい("
http://books.google.co.jp/books?id=L_xxOM85bD8C
" p795)のだが、長柄武器と火器の組み合わせという範疇には入る。とはいえ、この戦いをもってPike and Shotという戦術が確立したというには無理があり過ぎるだろう。wikipedia"
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sempach
"が一例だが、一般的にセンパッハの戦いで火器が重要な役割を果たしたとしている記述はほとんどない。主役はあくまで長柄武器である。
15世紀前半にはスイス軍の方陣は5分の1が弩弓兵とアーケバス"
http://en.wikipedia.org/wiki/Arquebus
"兵、5分の1がパイク兵、残り5分の3がハルバード兵で構成するよう命じられていた("
http://books.google.co.jp/books?id=oBHJ1eK_tcoC
" p825)。飛び道具を持っているのは2割にとどまり、しかも中身は火器だけでなく弩も含んでいたのだ。The Influence of Firearms Upon Tactics"
http://books.google.co.jp/books?id=ti1EAAAAYAAJ
"にも「スイス軍は火器をほとんど使わなかった」(p6)とある。火器の役割はあくまで補助的なものだったようだ。
15世紀に当時としてはかなり高い比率の火器を持っていたハンガリーの黒軍"
http://en.wikipedia.org/wiki/Black_Army_of_Hungary
"はどうだろうか。こちら"
http://books.google.co.jp/books?id=8dmBNpj1AfYC
"によればハンガリーは主にパイク兵とアーケバス兵を傭兵として雇っていたという(p11)。「彼らはパイク兵の間に3人に1人のアーケバスを持った兵を保持していた」("
http://books.google.co.jp/books?id=_FEV45rsuAoC
" p216)との指摘もある。この黒軍に代表されるハンガリーの傭兵軍がPike and Shotの本格的事例と言っていいのだろうか。
そうとも言えない。黒軍を作ったフニャディ・マーチャーシュ"
http://en.wikipedia.org/wiki/Matthias_Corvinus
"は手紙の中で「まだ軍が交戦する前の戦いの開始時、及び防御時には、楯を持つ兵の背後に配置するのが実用的だ。ほぼ全ての歩兵と手銃兵は、あたかも稜堡の背後に立っているかのように、鎧を着た兵及び楯持ちに囲まれる」("
http://books.google.co.jp/books?id=mzwpq6bLHhMC
" p152)と述べているのだ。マーチャーシュが考えていたのは、むしろヘースティングスの戦いで見られた楯壁"
http://en.wikipedia.org/wiki/Shield_wall
"のようなものだったらしい。
長くなったので以下次回。
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