ピットは「地図を巻いてくれ」と言ったのか

 ナポレオン漫画の今月号はアウステルリッツのまとめ。ロシア近衛兵の反撃が終わればもう描くことはないとばかりアッサリ終わった感じだが、そもそもアウステルリッツ自体2度目の掲載になることを踏まえるのならこんなもんだろう。そしてブクスヘヴデンはまたもや散弾に撃たれて戦死。クロイセだけでなく彼も2度死ぬことになった。一方、前回は戦い終了時点で姿を見せていたクラウゼヴィッツは今回は不参加に。
 
 続いて史実との比較。まずラップが突撃するシーンだが、これは様々な史料に掲載されている。古いものでは会戦の翌日に出された大陸軍公報第30号(Campagnes de la Grande-Armée et de l'Armée d'Italie en l'an XIV"http://books.google.co.jp/books?id=OI47AAAAcAAJ")に、「後者[ラップ]は親衛擲弾騎兵の先頭に立って突撃し、ロシア帝国近衛騎兵を指揮するレプニーン公を捕虜にした」(p300)という一文が出てくる。
 ナポレオン自身はおそらくセント=ヘレナでもラップの功績について言及している。Journal des sciences militaires"http://books.google.co.jp/books?id=9q7Om61bdlIC"に掲載されたRelation de la Bataille d'Austerlitzに「自らと敵の血に塗れ、ラップ伯はこの戦闘の詳細を伝えるために皇帝のところを訪れ、またロシア帝国近衛騎兵を指揮するレプニーン公と何人かの最も著名な捕虜を彼にもたらした」(p217)とあるのがその証拠だ。
 ラップの活躍は当時から知られていたようで、連合軍側のシュトゥッテルハイムもDie schlacht bey Austerlitz"http://books.google.co.jp/books?id=wFQUAAAAYAAJ"で「[ロシア]近衛騎兵は勇ましく攻撃し、敵騎兵増援のため到着したラップ将軍が指揮するフランス親衛擲弾騎兵と接近して交戦した」(p69)と述べている。公報が連合軍側の目にも留まっていたことが分かる一例だろう。
 ラップ自身は後に出版した回想録Mémoires du général Rapp"http://books.google.co.jp/books?id=zGYRgbipIQkC"の中で、この時の経緯について以下のように述べている。
 
「ナポレオンは私にマムルーク騎兵、猟騎兵2個大隊、及び親衛擲弾騎兵1個大隊を率い、状況を偵察するため前進するよう命じた。(中略)『諸君』私は兵に言った。『我らが友と兄弟たちが敵に踏みにじられたのを見たか。彼らに復讐せよ、我らの軍旗のために復讐せよ』。我々は砲兵に向かって突進し、それを奪った。我々を待ち構えていた騎兵も同じ衝撃で撃退された。(中略)彼らの大砲と荷物は我々の手に落ち、レプニーン公は捕虜となった」
p60-62
 
 次に右翼のダヴー。以前、彼に与えられた命令がどう変化したかを書いた。今月号の戦報の中では連合軍が攻撃している間に「フランスの軍団騎兵[マルガロン麾下]の士官が機転を利かせて救援要請を出したことから(直接の命令書を受け損なっていた)ダヴーは独断で直接向かってきていた」とある。だが少なくともダヴー自身の報告を見る限り、彼は一応命令は受け取っていた。
 Correspondance du maréchal Davout"http://books.google.co.jp/books?id=XRJBAAAAYAAJ"に載っている雪月5日(12月26日)のナポレオンへの報告には「これらの[第3軍団の]兵は当初トゥラスに向かっていました。それから私が受けた命令に従い、ゾコルニッツに方向を変えました。この行軍の間、[午前]8時頃、マルガロン将軍の士官が来て、ルグラン師団の第3歩兵連隊がテルニッツで激しく攻撃されていると私に知らせました」(p203)とある。マルガロンの士官が知らせに来る以前に、既にゾコルニッツに向かうようダヴーへ命令が届いていたことが分かる。ちなみにColinによるとマルガロンの部隊はゾコルニッツにいたようだ("http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k121748h" p496)。
 
 そして最後に載っていたピットの台詞。「地図を巻いてくれ。あと10年は使わないだろう」だが、調べてみるとなかなか興味深いことが分かった。
 まずこの台詞、どこで発言されたかがはっきりしない点で有名である。例えば元は1939年に出版されたGeorge III and William Pitt, 1788-1806"http://books.google.co.jp/books?id=U5maAAAAIAAJ"は、ピットが療養のため訪れた温泉で有名なバースがそうだとしている。「彼[ピット]が敗北主義者的発言をしたのは、この地で欧州の地図を記された時のはずである。『その地図を巻いてくれ。あと10年は必要ないだろう』」(p467)
 このバース説が有名になったのは、トマス・ハーディのThe Dynasts"http://www.gutenberg.org/files/4043/4043-h/4043-h.htm"のおかげだと思われる。同書の第6幕第6場には、バース近くのショッカーウィック・ハウスで、ピットが「その地図を巻いてくれ。今やこれから10年は必要とされなくなるだろう!」と台詞を吐く場面がある。
 しかしもっと古い本には別の場所が紹介されている。1843年出版のFrazer's Magazine"http://books.google.co.jp/books?id=5GY-AQAAMAAJ"には「アウステルリッツのフランス砲はモスクワにいたアレクサンドル・ヴォロンツォフにとってと同様、ロンドンのウィリアム・ピットにとっても致命的だった。ピットはヘスター・スタンホープ嬢[ピットの姪]に向かって『欧州の地図を巻き、決して再び見られないようにしてくれ。私は欧州との関係を終える』と言った」(p24)と書かれている。いったいどちらが正しいのだろうか。
 このアウステルリッツに関する逸話について探した中で最も古い記録は1841年出版のHistory of Europe"http://books.google.co.jp/books?id=PWUIAAAAQAAJ"だった。Archibald Alisonの書いたこの本によれば「憂鬱な欧州地図の調査後、彼[ピット]はそれに背を向け、『以後、我々はこの地図を半世紀はしまい込むことになるだろう』と言った」(p248)とある。この一文の前に彼がバースへ療養に向かったこと、後には彼がロンドンで死去したことが触れられているが、どちらの場所で地図を見たのかについては説明がない。
 それだけでなく、Alisonの本には「10年」が「半世紀」になっているという大きな問題がある。また、そもそもピットの死去から30年以上経過してこないとこの文章が登場しないあたりも怪しい。Life of the Right Honourable William Pitt, Volume IV."http://books.google.co.jp/books?id=yYKULRnj2WwC"はこの件について「時や場所についていくらかの違いがあり、従っておそらく直接の出典から引用されたものではない」(p369)と、内容の信頼性に疑問を呈している。
 
 だがもう少し調べると驚くべきことが分かる。実はこの「地図を巻いてくれ」という台詞、アウステルリッツと切り離して調べるともっと古い文献が見つかるのだ。1827年出版のWalter ScottのThe Life of Napoleon Buonaparte, Vol IV."http://books.google.co.jp/books?id=g9dUAAAAcAAJ"によれば、「ピット自身(中略)、マレンゴの敗北はフランスに対する成功の希望をかなりの期間にわたって終わらせるものだと考えていた。『その地図を畳んでくれ』と彼は欧州地図を指差して言った。『これから20年は再び開く必要はない』」(p289)となる。
 Scottが書いたこの話は、その通りマレンゴ後の逸話としてLockhart("http://books.google.co.jp/books?id=tOAvAAAAMAAJ" p195)、Bussey("http://books.google.co.jp/books?id=nPkDAAAAQAAJ" p315)、Kirkland("http://books.google.co.jp/books?id=1SIXAAAAYAAJ" p338)などが繰り返し引用している。20世紀になって出版された本にも見られる("http://books.google.co.jp/books?id=OwVBAAAAYAAJ" p68)。しかし、全体として見るなら「アウステルリッツ後」としたAlisonのバージョンより人気がない。
 なぜか。アウステルリッツ後とした方がピットの死期と近づき、よりドラマチックになるからだろう。実際、ピットの同時代人は「ネルソン同じ程度にピットも敵に殺された」(The Life of William Wilberforce, Vol. III."http://books.google.co.jp/books?id=g-eSS5b8zJcC" p245)と記している。地図を巻く話を使うのなら、マレンゴ後よりアウステルリッツ後の方が平仄が合うのだ。
 でも文献によって台詞を吐いた場所も時期も違うこんな話が史実である可能性は、極めて低いと考えていいだろう。そもそも現時点で見つかる最古の文献は、アイヴァンホーを書いた小説家であり詩人であるあのWalter Scottの手になるものだ。加えてScottが「マレンゴ後」としていた話を「アウステルリッツ後」として盛り上げ役を果たしたのが、以前その不誠実な引用を批判したこと"http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/39909081.html"があるあのAlison。こんな面子が絡んでいる話を信用しろという方が難しい。
 結論。ピットが「地図を巻いてくれ」と言ったことが史実だとするには証拠が乏しすぎる。むしろ「10年」という発言が「不気味なほど正確」だったことを踏まえるなら、後知恵ででっち上げられたものだと考える方が蓋然性は高い。この逸話は史実と見ない方が安全だ。
 
 ちなみに以前、Alisonの発言にツッコミを入れたときに大元のソースとなっていたRécit historique de la campagne de Buonaparte en Italieなる文献、今ではgoogle booksで閲覧可能だ"http://books.google.co.jp/books?id=X6RBAAAAcAAJ"。
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