「髭剃り」プロコプ

 フス戦争の主役というべきジシュカ"http://cs.wikipedia.org/wiki/Jan_%C5%BDi%C5%BEka"は1424年には死去しており、その後リパニの戦い(1434年)に至るまでの10年間は大プロコプ"http://cs.wikipedia.org/wiki/Prokop_Hol%C3%BD"と呼ばれるフス派僧侶が事実上の軍事指揮官的立場にあって戦いを主導したと言われている。ところがこの大プロコプに関するネット上の日本語ソース、実にいい加減だ。
 
 大プロコプで検索して見つかるのはこちら"http://www.h7.dion.ne.jp/~sankon/2ch/history/s04/4923.htm"とかこちら"http://www002.upp.so-net.ne.jp/kolvinus/tabol/tabol6.html"があるのだが、いずれも大プロコプについてジシュカ死後の「孤児」たちの指導者だとしている。またプロコプの名前について「アンドレアス・プロコプ」という表記を採用している。だが前者は間違いであり、後者は疑わしい。
 前者についてはおそらく小プロコプ"http://cs.wikipedia.org/wiki/Prokop_Mal%C3%BD"と混同されている。この小プロコプ(プロクーペク)は確かに孤児たちの指導者になっているが、あくまで大プロコプとは別人だ。それに小プロコプはジシュカの死後すぐ指導者になったわけでもない。最初はベロヴィッツのクニェズ"http://hussitesriding.blog.cz/galerie/husitske-osobnosti-nejvetsi-databaze-hejtmanu-rytiru-duchovnich-kazatelu/obrazek/82537301"なる人物が孤児たちの指揮を執り(The Hussite Wars"https://archive.org/details/hussitewars00ltzo" p182)、1428年から小プロコプが有名になっていった(p219)
 一方、大プロコプは孤児たちではなく、あくまでターボル派のリーダー。ターボル派はジシュカの死後にまずヴィーツェミリツのフヴェズダ"http://de.wikipedia.org/wiki/Jan_Hv%C4%9Bzda_z_V%C3%ADcemilic"がリーダーとなったが1425年のヴォツィツ攻囲で戦死(The Hussite Wars, p183)。後を継いだシュヴァンベルカのボフスラヴ"http://hussitesriding.blog.cz/galerie/husitske-osobnosti-nejvetsi-databaze-hejtmanu-rytiru-duchovnich-kazatelu/obrazek/61198978"も直後にレッツの戦いで死に、その後に大プロコプがターボル派の指揮官に選ばれた(p185)。ジシュカは生前から既に一部の過激派には嫌われていた(p157)。ジシュカの死後、彼同様に穏健派だった連中は自らを「孤児たち」と名乗り、過激派が残ったターボル派と分裂している(p177)。
 Lützow以外の書物でも、大プロコプは「孤児」ではなく過激派であるターボル派の指揮官だったと書いている("http://books.google.co.jp/books?id=Bcm-AAAAQBAJ"のp285、"http://books.google.co.jp/books?id=g46euaF7HAsC"のp629など)。だがネット上では日本語関連サイトだけでなく、例えばドイツ語"http://de.wikipedia.org/wiki/Sirotci"やフランス語"http://fr.wikipedia.org/wiki/Orphelins_tch%C3%A8ques"のwikipediaにも孤児たちの指揮官が大プロコプだと書いていたりする。フス戦争が欧州ですらマイナーな存在であることが分かる実例だ。
 
 次にアンドレアスというファーストネームだが、確かにドイツ語wikipedia"http://de.wikipedia.org/wiki/Andreas_Prokop"にはアンドレアスという名前が載っている。だがソースは不明。19世紀の文献でアンドレアス・プロコピウスという人物は出てくるが("http://books.google.co.jp/books?id=MOE0AAAAMAAJ"のp938など)、どのような史料に基づいて書かれているかは分からない。
 1905年のNew International Encyclopdiaにはアンドリュー・プロコピウス"http://en.wikisource.org/wiki/The_New_International_Encyclop%C3%A6dia/Procopius,_Andrew"の項目があり、こちらにはソースとしてCreightonのHistory of the Papacy"http://books.google.co.jp/books?id=Ws0sAAAAYAAJ"が示されているが、その本を見てもどこにもアンドリュー・プロコピウスとかアンドレアス・プロコピウスという名前は出てこない。あくまで出てくるのは大プロコピウス(p550)だ。
 そしてアンドレアスのチェコ語表記であるアンドレイAndrejを使い、andrej prokopをgoogle booksで探しても関係ありそうなものは見つからない。史料からの引用が多いチェコ語wikipediaにも、アンドレイやらアンドレアスといった名前は存在しない。一体どういうことなのか。
 Lützowによると、実はプラハの商人だった大プロコプの父親の名前がアンドレイだった(The Hussite Wars, p185)らしい。Alphons Neubauerが1910年に雑誌に掲載した調査がどうやら元ネタ。だとすると19世紀の文献に伝わっているアンドレアス・プロコピウスは、もしかしたらこの父親の名と本人とが混同されていたのかもしれない。いずれにせよ、アンドレアスが大プロコプのファーストネームだと裏付けるきちんとした史料がない限り、この名は使わない方が安全だ。
 
 ちなみに大プロコプについては「禿のプロコプ」Prokop the baldという表記もあるが、これは間違いだという指摘もある。チェコ語のHolyの訳語"http://en.bab.la/dictionary/czech-english/hol%C3%BD"を見ると確かにbald、つまり禿が含まれている。だがプロコプの伝記"http://books.google.co.jp/books?id=ey4-AAAAIAAJ"を記したJosef Macekは「禿」ではなく「ひげを剃っていた」shavenという意味だと指摘している"http://cs.wikipedia.org/wiki/Prokop_Hol%C3%BD"。
 実は当時、ターボル派の僧侶たちは基本的に髭を伸ばしっぱなしにし、髪の毛を剃る(いわゆるトンスラ"http://en.wikipedia.org/wiki/Tonsure")こともなかった。こちらの本"http://books.google.co.jp/books?id=Us_WmK5k8E4C"に収録されているヴァヴリネツの記録によれば、「ターボル派の僧侶たちは人間の伝統から逃れ、髭を生やし頭を剃らずに灰色の服を着て歩いた」(p338)。
 一方、プロコプの容貌について記したピッコローミニは、髭に関して「口ひげと僅かなあごひげ」とのみ記している。つまり彼は髭を伸ばしっぱなしにはせず、きちんと剃って手入れしていたのである。フス派に関する最近の本では、「禿のプロコプ」よりもこちらの「髭剃りのプロコプ」説を取り上げることが多い("http://books.google.co.jp/books?id=xwpBfVpG1lsC"のp26、"http://books.google.co.jp/books?id=Vzw8CHYQobAC"のp239など)。
 
 なお、フス派の傭兵残党はその後、ハンガリーの「黒軍」"http://hu.wikipedia.org/wiki/Fekete_sereg"編成に参加しているという。この軍は当時としては火器装備比率が非常に高く、またこの軍を編成したマチャーシュ・コルヴィヌスはフス軍の戦術を好んで採用したそうで、どうやら彼らがラーガー戦術をオスマン帝国に伝えるうえで一定の役割を果たしたと見られる。フス派→黒軍→オスマン帝国→サファヴィー朝やムガール、という技術の伝播ルートがあったのだろう。
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