グダグダになった理由は、対立軸がいくつも存在したため。Lützowによれば戦争の原因は宗教、民族主義、そして民主的精神だったという。信仰や教義を巡るフス派とローマカトリックの対立は現在でもフス戦争の最大の要因として紹介されているが、一方でチェコ人とドイツ人が入り混じって住んでいた当時のボヘミアにおけるスラヴ民族主義、そして一部の過激派に限られてはいたが封建制はもとより君主制すら否定し、共和制や極端に言えば共産主義的理論まで登場したのがこのフス戦争だった。
ボヘミア内部がおよそ一枚岩でなかったのは、複数の対立軸を挟んで住民が細かく分断されていたのが理由だ。確かにフス派と呼ばれる人がボヘミアに多かったのは事実だが、一方でローマカトリックへ忠実な人間も少数だが存在した。フス派も穏健派のウトラキストと、過激派だったターボル派に大きく分けられ、さらにターボル派から分離した「孤児」たちが存在するなど、宗教的にはかなりバラバラ感が強い。
民族的に言えばゲルマン対スラヴという構図が浮かび上がる。ドイツ人の多いクトナー・ホラなどはフス派とかなり激しく対抗したし、プラハの下層民などは宗教教義を巡る小難しい議論よりも「ドイツ人憎し」という感情を中心に動いていたようだ。この問題は一歩間違えればドイツ対ポーランドといった国際的紛争にもつながりかねなかったわけで、実際にボヘミア王の座に関してはそうした動きがあった。
例の漫画"
http://seiga.nicovideo.jp/comic/6131"では民衆対騎士という構図を強調しているが、そうした一種の階級闘争的な面もあったようだ。少なくともターボル派はかなり反封建制、反君主制的な色彩の強い連中だったし、プラハの下層市民たちもそういう傾向が見られた。プラハ民衆による蜂起などはほとんどフランス革命的と言ってもいいくらいで、ヤン・ジェリフスキーの行動などはフス戦争のマラーとでも言いたくなるほどである。
結果、ボヘミアは少なく見積もってもローマカトリック派、穏健派のウトラキスト、急進派であるターボル派、宗教的には穏健だが反ジギスムントという点ではより強硬な「孤児」たちに別れ、さらには身分ごと、都市ごとの対立も絡んでどうしようもなくバラバラになっていた。ボヘミア内部には最後までローマカトリックを支持した町があり、ジギスムントはモラヴィアにはずっと拠点を確保し続けた。そして、当然の如く情勢を見ながら次々と所属派閥を変える人間もおり、グダグダ感はさらに増している。
そうした分断に油を注いだのが、戦争終盤に増えてきた傭兵たちだ。もはやボヘミア人でも何でもない彼らは、フス戦争がボヘミア外部まで広がっていく過程で軍の主力となり、結果として軍の規律が失われていく要因ともなった。ジシュカが生きていた頃の「神の戦士たち」は、最後は単に生きる手段として戦争と略奪に明け暮れる集団となり、ある意味フス派没落の大きな要因を作った。
とはいえグダグダだったのはボヘミア内部だけではない。彼らと戦った十字軍も内実は酷いものだった。ジギスムント自身が時に応じて対応がころころ変わったし、そもそも彼はローマ教皇と決して一蓮托生ではなかったらしい。ローマ教会自体も最初は教皇を頂点とした(フス派を異端と決め付けるような)強硬派が多かったが、後にバーゼル公会議が開かれる時にはむしろ教皇と対立する連中も出てきた。終始ジギスムントと歩調を合わせていたのは、彼の後継者(娘婿)だったオーストリアのアルブレヒトくらいだろう。
帝国諸侯もバラバラであった。ボヘミアに近接しているシュレジエン、マイセン(ザクセン)あたりはかなり真面目に対ボヘミア戦争を行っていたが、少し離れた諸侯にとっては結局他人事に過ぎなかったようだし、ブランデンブルク選帝侯に至ってはジギスムントとの対抗上からフス派に対しては常に融和的な対応をしていた。平民たちの中にはボヘミアの民主的取り組みに共感を抱く向きもいたようで、封建制自体の足元が掘り崩されかねない面もあった。
ボヘミアの潜在的な味方になりえたスラヴ、特にポーランドとリトアニアも優柔不断な対応が目立った。ポーランド王は国内のカトリック派の機嫌をとることを優先したためか、ボヘミアの状況に対してあまり積極的に手を差し伸べようとしなかった。彼の甥(リトアニア大公の甥でもある)ジーギマンタス・カリブタイティス"
http://en.wikipedia.org/wiki/Sigismund_Korybut"は一時期、ボヘミアの統治者にもなったが、結局はボヘミア内部の争いに巻き込まれて権力を失っている。いや実にグダグダだ。
長く続いた戦争は最終的に引き分けに終わった、とLützowは書いている。かつては異端撲滅を唱えていたジギスムントは、結局フス派の信仰を認めることで王の座を得た。ローマ教会との対立は最後になってボヘミアの大司教の任命権を巡る人事争いにまで堕した。反封建制、反君主制まで唱えていた急進派は力を失った。
自分たちの権利を確保できたうえに既存勢力との共存もできた穏健派が勝利者に見えるが、彼らがボヘミアの信仰において有利な立場を保持できた期間は短かった。30年戦争においてボヘミアはカトリック側の反動に襲われ、20世紀の初頭には95%以上がカトリック教徒となっている"
http://en.wikipedia.org/wiki/Religion_in_the_Czech_Republic"。しかしカトリックも最終的な勝者ではなかった。20世紀後半にかけてチェコではそもそも無宗教が増え、今では最多の割合を占めるに至った。フス派の教徒は人口の0.4%しか残っていない。
フス戦争の最終的な勝者は誰だったのか。個人的には火器の使用というノウハウこそが「勝者」だったのではないかと思う。フス戦争でジシュカが生み出したラーガーと火器の組み合わせは、前にも指摘した通りオスマンを経てサファヴィー朝、ムガールなどまで広がった。また西欧でも火器の使用は広がり、そして火器の発達はやがて世界を飲み込んでいく。火器をミームと見なすのなら、彼らはフス戦争という絶好の繁殖場を発見し、そこから世界へ恰も疫病のように世界へ広がっていったのだ。All hail firearms!
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2014/04/04 URL 編集