シュリーフェン計画と兵站・3

 今回調べた限り、結論は以下のようになる。第一次大戦時点で食糧の現地調達が即座に兵站の失敗を意味していたとは言えない。たとえ現地調達を強いられても結果的にうまく回ったのだからOKという考えはある。だが現地調達は兵站失敗とは無関係と言うこともできない。何事もそうだがオールオアナッシングで考えるのではなく、程度を測る必要がある。現地調達がどれほど軍の戦闘能力に影響を与えたかを見なければ、兵站の失敗かどうかの評価は無理だろう。
 第1軍の兵站部門関係者はおおむね成功だったと見ている。彼らの担当範囲について言えば、弾薬は自動車輸送部隊の八面六臂の大活躍があってどうにかめどが立った。人間用の食糧は豊かな土地と収穫期という季節的幸運に支えられて、新鮮なパンといった一部の問題を除いてうまく回った。一方、オート麦の不足と軍の速すぎる行軍は馬匹の損耗に直結し、騎兵部隊や馬が牽引する大砲、輸送用馬車などに大きなトラブルをもたらした。
 同時代人の中には、第1軍関係者とは逆に兵站が失敗に終わったと認識しているものもいる。1920年に出版されたThe Battle of the Marne"https://archive.org/details/battleofmarn00perr"の中に引用されているのだが、会戦から2年後の1916年に「ドイツ参謀士官」が記したDie Schlachten an der Marne"http://books.google.co.jp/books?id=v32YPgAACAAJ"は兵站の実情について以下のように記している。
 
「ドイツ軍は拠点をどんどん後方に置き去り、疲労する行軍によって自ら疲れ果てていった。彼らは弾薬と食糧を恐るべき速度で消費し、そして補給業務の僅かなトラブルさえこれほど巨大な集団にとっては致命的に成りえた。その間、フランス軍は日々新たな兵を受け取り、日々彼らの弾薬と食糧の蓄えに接近していった」
p105
 
 同じく大戦中の1917年にロンドンで出版されたThe Marne campaign"https://archive.org/details/marnecampaig00whit"も同一の内容を指摘している(p248)。さらにThe Battle of the Marneには以下のような指摘もある。
 
「ドイツ軍の計画に備わっている弱点が現れ始めた。不成功に終わった日々の追撃が軍の補給問題を悪化させ、彼らを重砲兵から遠ざけ、歩兵の戦線を引き延ばし薄くして、その連絡を弱め疲労と疑いを引き起こした(中略)一方フランス軍は連絡線が短くなり全般に集まるようになった」
p220
 
 第一次大戦後も同様の指摘が続いた。Gerhard Ritterは1956年に出版したDer Schlieffenplan"http://books.google.co.jp/books?id=si58NQAACAAJ"の中で既に「[鉄道破壊のため]何週間にもわたって右翼軍は行軍によってのみ到達できる状態にあり、もし最高司令部がトラックの在庫ほとんど全てを与えなければ補給がない状態だっただろう。シュリーフェンはこの点についてはとても不明確だった」(英訳本p63)と指摘している。
 同書は1958年に英訳された"http://www.gwpda.org/memoir/Ritter/ritter1.pdf"。その序文ではリデル=ハートが「彼ら[ドイツ軍]は鉄道の破壊によって生じた補給の不足によって酷く苦しみ、フランス軍が反撃を始めたときには今にも機能停止しようとしていた」(p10)と記している。1977年に書かれたクレフェルトの補給戦は、こうした長い伝統の系譜を引き継ぐものだった。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

トラックバック